Diary

春。妻と息子とプールへ行き、水の中に遊ぶ二人を眺める。 プールの水に潜ると地上の音が遠くなる。そしてほかの音が近くなる。 静かな水面の下に見えていた液体の、ずっしりとした重たい流れ。その抵抗を突き破って口から排出される空気の泡のたてる音。吐…

地元の旧友と会うために妻がせっせと出かける仕度をしているときに、息子から携帯を貸してくれと言われて手渡した。何に使うとも言わずに黙って妻の携帯と合わせて畳の上に並べる。この忙しい時に、と妻に急かされながらハタハタと二つの携帯の画面を何度も…

最後まで寝ていた床の間で目を覚ますと、こたつの上に城の絵が置かれている。天守が正面から、城郭が上方から数色の色鉛筆の線を使って描かれている。昨日訪れた大阪城に似せた天守は自由帳の紙面の中に堂々と居場所を占めて、一枚の紙の中に上から下へと重…

新幹線のチケットにある指定の座席を見つけて腰を下ろしたあとに大人がやることといえば、ほっと息をついてペットボトルの水を飲みお菓子の袋を開ける、持ってきた本や雑誌のページに目を通し始めるといったところだが、自分もかなり前からそんな大人になっ…

前の日から リュックを背負う 春休み

ねえねえと肩をたたいて、声を出さずに「バーカ」と言う。 妻は本気の怒り顔をしてくれる。

一年ほど前、幼稚園の園庭でのこと。 年長だった息子が気分良くブランコを漕いでいた。すると隣に年下の子が勇んで現れて、息子より高くブランコを漕ぎ上げた。 横目に見て自分には到達できない高さと悟った息子、おもむろに 「オレ、止まるの得意だから」と…

誕生日の前日の夜、妻と息子に誘われて山下公園から船に乗った。一年で一番寒いこの季節とあって船内は他に三組いるだけのほぼ貸切状態。席が広く使えて気兼ねもないのだが、予定されていたバンドの演奏が中止になって、それを知らされた夕方に母子でちょっ…

前夜の酒の席で友人から勧められた場所へやってきた。 伊勢神宮。 空気が澄んでいる。寒いとか冷たいとか、そういう判断を下す前にそれは体の中に入っている。足元で砂利の音が冷ややかに響く。足を止めると風のそよぎもやむ。すると人の気配が強くなる。高…

朝、目覚めると日射しと人の気配があって、体を起こすとソファーの上で大きなヘッドホンを頭に載せて箱根駅伝を見ている二人の後ろ姿がある。僕の気配を察すると、妻がヘッドホンを外し席を立って台所へ歩いていく。 今年もそんな正月。神社に参ったり参らな…

東名の大井松田から車でさらに足を伸ばして半時間。夜の十時、南足柄の見晴らし台。 年初に手に入れた双眼鏡(18x70)を一度遠征地で空に向けてみたいとずっと思ってきたけど、思うように時間が取れないまま年末になってしまった。ここに来るのは一年ぶりだ。…

ごく簡単に。 今日は妻のお母さんの最後の出勤だった。父を亡くした十八才から七十二才まで五十四年間(自分の人生はまだその年数にも達していない)。 自分の足で踏んだミシンで服を届け、弁当を売り、病院の患者の食事を作って、世の中のための仕事を果たし…

北極海。シャチの群れが獲物を追う場面をテレビで見た次の日の夜。 廊下のすみに、水を満たした大小のペットボトルが楕円状に並べられていた。 大人のクジラが子どもを内に囲んで守っているのだ。

先月のある月曜日のこと。 朝の八時頃、ソファーで放送大学を見ながら朝食を食べていると、息子を見送りに行っていた妻が息を切らせて帰ってきて、「上履き忘れたから、届けてくる」と言うが早いか、またすぐに飛び出していった。 窓の外を見ると雨が降って…

妻から「最近のあなたのオナラは打楽器じゃなくて弦楽器だ」と言われた。 和太鼓と同じで、張りがなくなったら摩擦で空気を震わせるしかないからなあ。

今日は日がな泣いたように過ごした。 電車の鉄輪から伝わる線路の軋みも、山の端に煙る霧雨も、路地裏の立ち飲み屋で酒盛りをしている人たちの顔も悲しかった。 鳩尾の辺りに不快に渦巻いていたものをここにさらけ出しても生々しいだけだ。ただ外の世界に対…

『八月の狂詩曲』 今日、和歌山の実家では迎え火を焚いたそうだ。仏さんが家に帰る道を見失わないための目印だと聞いて、他の家でも火を焚いたらどの家か分からなくなるではないか、と息子。加えて「仏野郎は何処から来るんだ」などとおちょけるから怒られて…

昨夜半に一人帰宅。帰路は往路に増して熱暑と悪臭の難行であった。 よく寝て快復したものの、今日はゆっくり映画でも見て過ごす。こんな一人のときは家族で見られない戦争モノから片づける。親のいなくなった邸宅で缶詰を貪っていた『太陽の帝国』の少年を、…

昼前に妻と息子が家を出てかた一時間もしないうちに好からぬ欲望が頭をもたげた。夕方までにやるべき仕事はたくさん残っている。これまでずっとそれを押し殺すために使ってきた理由も変わらずそこにある。けれども頭の中の意志の束が劣悪な力に無理に掴まれ…

四方に夏らしい雲が沸いて暑い一日。散歩から帰るとポストに親戚からの暑中見舞いが届いていた。 旅行中は浮かれながらも緊張していた気持ちがほどけ、諸々の感情が合わさって一気に涙が流れた。

あまり確かな記憶じゃないのだけど、まだ小学生になりたてのときに東京の百貨店でおもちゃを買ってもらったことがあった。クリスマスか誕生日に近い冬の季節、神奈川の田舎から電車に一時間以上ゆられて上京し、今よりも大人たちがずっと大きな声を上げて話…

さらに18x70の話。 5月の末にあった火星の大接近の際にもこの双眼鏡を使ってみた。この頃、火星はさそり座の頭の近くにあって、すぐそばの土星や、逆方向に大円を描いて西の空高くに引っかかっている木星とともに、にぎやかな黄道の眺めを成していた。それぞ…

ニコン18x70の話の続き。 これより前に主力として使っていた双眼鏡はニコン16x56だった。手持ちで使える双眼鏡の倍率は10倍までという通説に逆らって16倍を手に入れたのは、当時宵の空に見えていた金星の満ち欠けをなるべく大きく見てみたいという欲求に加え…

ネットにもあまりはっきりと断定した記述はないようなのだけど、ニコンの18x70という双眼鏡、無限遠にピントを合わせて三脚に固定すれば土星の輪はきちんと見えます。「面積をもった楕円形」でもなく、ガリレオが3.8cmの望遠鏡で見た「耳たぶ」状にもでもな…

妻が着ていた寝巻きにほつれを見つけた。もう買い替えれば?でもまだ着れるから、などと台所の中で話していると、テーブルで絵を描いていた息子がのぞき込んできた。 「お金がなかったらオレの使ってもいいよ」 だって。四月から貰い始めたお小遣いはまだ財…

土曜日。梅雨前の空気が一時澄んで、朝から箱根の山がよく見える。午前中から小学校の授業参観があった。父兄が集まると子どもたちがグループごとに分かれて、学校の各所に案内し、その場所の説明をしてくれる。「ここは屋上です。大きな字で小学校の名前が…

初めそれは笑い声のように聞こえた。僕が仕事部屋に消え、再会のあとの一騒ぎを終えた甥と息子がテレビを見ている隙に、洗面所にひきこもった姉妹が秘密を分け合い忍び笑いをしているのだと思った。けれども声は似ていても、壁を通して聞こえてくるのは妹の…

最後の通院を終えた妻を駅まで迎えにいった。スマホから面を上げたときの顔はクールだったけど、疲れたような瞼の様子からその前の時間のことが少しわかった。午前11時、外は篠つく春の雨。小っ恥ずかしくなるほどお誂え向きの情景だからこんなことを書いて…

青空文庫で『或阿呆の一生』を眺めているときにのぞき込んできた妻が「この前読んでた『阿Q正伝』の阿Qとどっちがアホなん?」と聞いてくる。どうも話が合わないと思っていたら、彼女は魯迅の『阿Q正伝』とか、ダウンタウンのアホアホマンとかそういうものを…

正月から発起してRussellの"History of Western Philosophy"を読んでいる。行き帰りの電車や寝床の中でうたた寝を友にちびちび。そこから興味が派生して二月頃に一時中断、世界史の教科書を引っぱってきて二周した。延々つづくドンパチや地図の塗り替えを古…