東名の大井松田から車でさらに足を伸ばして半時間。夜の十時、南足柄の見晴らし台。
年初に手に入れた双眼鏡(18x70)を一度遠征地で空に向けてみたいとずっと思ってきたけど、思うように時間が取れないまま年末になってしまった。ここに来るのは一年ぶりだ。峠の突端に立つと対面に富士が見える。夜の暗がりがその稜線からはじまって天の頂まで上っていく。富士と峠の間の幅の広い窪みに、御殿場の町の光が大河の水のように貯まっている。
三脚を立てて双眼鏡をセットして冬の星座のあちこちに筒を向けているうちに、星図を頼らなくても探し出せる対象は一時間ほどで見終わった。
M31(アンドロメダ銀河)は、これまで見た中で円盤が一番大きく見えた。自宅のベランダから何度チャレンジしても厳しかったNGC2477も無数の淡い星の粒として認識できるし、同じく自宅で眼の周辺視野を使って視認できる光度の限界だったM79も小さなタンポポ状にはっきり見える。こうして遠征のたびに星見にとっての空の暗さの恩恵を思い知るのだが、今日はそうとも思えない対象もあった。例えばM42(オリオン大星雲)。ガス雲が形作る鳥の翼は自宅とは比べものにならないほど大きく開いているけど、どうにも輝きが強くてギラついている。ペルセウス座二重星団も見える星の数に文句はないけど、いかんせん数が多すぎて視野の中が騒々しい。星団の場合、空のどこに筒を向けても膨大な数の星が視野に入ってくるような夜空では都会の人ごみの中にいるようで、山中で人家を見つけるような温かみ、有難みを感じにくいのかもしれない。
その点やっぱり銀河は良い。満点の星とはいってもあの空で双眼鏡で見えてくる銀河は五つか六つだからその出会いは希少だ。特におおぐま座、北斗七星の先に翁の眉毛みたいに垂れ下がったM81とM82は良かった。二つとも前の双眼鏡(16x56)で見たときよりも一段シャープで、M82は星の密集が感じられる太い線分状、M81はより穏やかな集合といった具合にそれぞれの形の違いもよく分かってとても満足だった。
天文年鑑見たら、M81もM82も地球からの距離は1790万光年だって」。僕がこう話すと、息子は持ってきていた懐中電灯をその方向に向かって何度か点滅させた。たった今双眼鏡で見た光がここにやって来るまでに、懐中電灯の光が向こうにたどり着くまでに、そして向こうから返信が帰ってくるまでに…。誰も口にはしなかったけれど、そういう得体の知れない大きさの観念が一瞬みんなの頭の中を領したのは間違いがなかった。それは僕にとってはただの時間の経過でもなく、空間の隔たりでもない、何かもっと充実した大きな固まりの中にいるという、一体感、親近感のようなものだった。1790万年の過去と1790万光年の隔たりを今僕らが手にしているように、僕らの今・ここもいつか誰かの手に渡るというような。本当は時間なんて経っていないんじゃないか、というような。
気づけば傍らの芝生の上にいつの間にか張られたテントの中から妻の本読みの声が聞こえている。昨日図書館で借りてきたヒョウの親子の物語。僕の星見の時間を確保するために妻が計らってくれているんだ。暖かい車に戻ればまもなく、冷え切った彼らの身体は別の暗がりの中に休らうだろう。