妻が着ていた寝巻きにほつれを見つけた。もう買い替えれば?でもまだ着れるから、などと台所の中で話していると、テーブルで絵を描いていた息子がのぞき込んできた。
「お金がなかったらオレの使ってもいいよ」
だって。四月から貰い始めたお小遣いはまだ財布の中に四百円しかないのにね。
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こういうことがあると親はいつまでも覚えていて、子どもが大きくなったときに、「あのときお前は…」などと微笑ましげに振り返ったりするものだ。僕自身にもいくつかそういう逸話はあり、親が年をとるにつれてそういう話を聞く機会は少しずつ増えてきた。基本的に親が幸せそうに振り返っていることだから、聞かされた子どもも悪い気分はしないものだけど、よくよく自らを省みると、そこに違和感を発見することもある。理由は単純で、子どもはそのときそのときで必死だから、親が思っているような純朴な気持ちで言っていない場合もあるし、ときには子どもなりの抜け目のない計算から発していることもあるということだ。
まだまだ未熟とはいえ四十年近く生きてきた大人と、年端もいかない子どもの間には、余裕という点で身も蓋もない不均衡がある。僕自身の幼少期、大人が想定するような大らかな心の構えを持ちえた記憶なんてほとんどない。逆に言うと、「微笑ましい」という大人の感情を手に入れたときには、人はもうある種の感受性を失っているのかもしれない。「優しい」という言葉では到底言い尽くせなかった、繊細で不安で壊れやすい、子ども時代の心象風景を語る手掛かりを。
「あのときお前は…」と振り返ることが、無遠慮な振舞いだと言いたいわけではない。楽ではない子育ての果実として微笑ましさを手に入れることを親の当然の権利として主張したい気持ちもある。けれども、そこからはもう一歩も踏み込まないようにしようと思う。子どもの頃の記憶がどんなに薄れてしまっても、「あのときのお前」が指示するところの先にある一人の人間の心象風景が、親の心地よい回想とは全く別個の存在として生きていることを決して忘れないこと。
ガラスに包まれた球体はすべて尊重されるべきであるということ。