少し落ち着いて、ゆっくりものを考える時間ができたかと思うと、またすぐに状況が変わって目の前の課題の具体的な対処に追われる生活。仕事の時間はタスクの遂行に占められ、思考は自由度の低い、しかし長大な計算に取って代わられる。生活からポエジーと睡眠が抜けていく一方で、改善と前進のお題目に囚われたマインドが居心地悪そうに悶え始めると、自分の中のエロスとタナトスはこの二重生活のどちらを指示しているのか分からなくなるけど、ある人からは山のように時間があると思われている境遇の中で、思い返せばもう八年もこの往復を続けてきたのだから、「本当の自分はこっちを望んでいる」という解がある問題でもなさそうだ。手続き化してこなせる仕事なら他の人がやれば良い、と思っている自分と、時間ができたときにやりたいようなことは、老後にやれば良いという自分が同居している。
あれほど咲き誇っていた桜が誰にも目を向けられなくなってから、通りや林の木々の中で、どの木が桜だったのかさえ分からなくなってしまった。注意深く見てみると、黒っぽい幹に花のように薄い葉をつけているのが桜で、長くなった日を透かしてさざめく姿からはそれなりの生命の謳歌が聞こえる。
週末に、新緑に染まった近場の公園で父兄参観のできる遠足があった。一昨年前に同じ場所で出会ったときに年少だった子どもたちが、下級生たちに勇猛な遊び方を見せつけるたくましい年長さんに成長している。木を伐採して開かれた山の斜面に大きな滑り台があって、そこでコースから飛び出しそうになりながらスピードを競っている子どもたち。写真を撮ろうと坂を上っていくと中腹にトランポリンがあり、そこにも小さな集団ができていて、一体これは靴を履いたまま入っていいのかを議論している。ある一人がそこに注意書きがあることに気がついた。「くつをぬいでください」の「く」の部分が剥がれて「つをぬいでください」と書いてある。その子が覚えかけの知識を駆使して声に出して読み始めると、他の子は「お前、読めるのか!?」とばかりに一斉に固唾をのんで静まり返る。「つをおいでく…」。すると今度は別の子が名乗りを上げて「つくをぬいでください」。議論はここで一応決着。読む子どもとそれを見守る子たちの真剣な表情に手を合わせたいような敬虔な気持ちになった。男の子も女の子も無差別に混ざってふざけあう世界は眩しすぎて、大人はノスタルジーに押し流されるだけだけど、僕らの中にも、幼稚園の先生たちが誂えてくれたこういう経験から受けた恵みがきっと生きている。そう信じたくなるほど、大人たちにとっても楽しい一日だった。