子どもの頃、人にありがとうというのが苦手だった。別段うれしくないわけではない。言わなければならないのは分かっていて、大人に促されて最終的に口にできたとしても、その言葉が口の端に上るまでには、自分でも分からない大きな抵抗があった。今でもそんな子どもは決して少なくないはずだ。けれども大人は内心訝しむ、どうしてこんな簡単な言葉が素直に言えないのだろう、欲しいものを買ってあげたのに嬉しくないのかしら。
妻に教えられて、あの頃の葛藤の謎が少し解けたような気がした。なかなかゴメンと言えないこと、ゲームでの敗北を認めづらいことと同じく、結局のところ、それは子どもの無力感への抵抗なのだ。自分の小遣いで買えないことは百も承知、親の懐にそれほど余裕がないことも分かっている。だから自分はショーウィンドウの中の最高級品を指差しているわけではない。心底から欲しいものからランクを落とすということは、大人への途轍もなく大きな譲歩なのだが、それを上手くアピールできる言葉はない。だからあの表情。「これが欲しい」ではなく「これにする」。

「でもあの子、とても嬉しかったんだと思うよ」
港北のホームセンターまでキャンプグッズを買いに出かけ、てんやわんやだった一日の終わり。玄関と廊下には袋や空き箱、タグを切るために使ったハサミがほっぽり出されていた。薪、木炭、着火用のライターがリビングに続き、ペグとハンマーは打ち込む練習をしたのかソファーの上にある。三人分のシェラフが見当たらないのは、寝室に持ち込まれ、そのうちの一つに早速潜り込んで彼が眠りについたからだ。春先でも山中は冷え込むからとマイナス5℃まで対応できるものを、カタログで目星をつけていた彼が商品棚から見つけ出してきた。そのせいか、覗き込むと体が半分以上寝袋から出ていた。

「ありがとう」の反対が「当たり前」をひっくり返すと、「当たり前」の反対が「ありがとう」になる。心に収まらない乱雑さが示すそういうサインは色々なところに散らばっているのかもしれない。