誕生日の前日の夜、妻と息子に誘われて山下公園から船に乗った。一年で一番寒いこの季節とあって船内は他に三組いるだけのほぼ貸切状態。席が広く使えて気兼ねもないのだが、予定されていたバンドの演奏が中止になって、それを知らされた夕方に母子でちょっと揉めたそうだ。去年の秋、横浜駅の近くでやっていたレゲエグループのステージに聞き入ったときから生演奏の魅力に目覚めて、今日はそれも楽しみにしていたのかもしれない。
寒くはあったけど、海の上から眺める街や船の光は静かで厳かだった。マリンタワーのイルミネーションが、赤から緑、青から紫へとLEDの色を変え、その上方に最大光度に近づいた金星が心持ち扁平な光を放っている。水に浮いたものにしか出せないゆったりしたスピードで、船の航跡は波止場から波止場へと太い光の線を描く。妻を船内の席に残して息子と二人でデッキに出たとき、彼は「ああ、いい景色だわ」と言ったあとに目に映るさまざまな船や橋やクレーンの説明をしてくれた。「この船はマリーンルージュ、全長何メートルで重さは何トン、19○○年にできた」、「あれは○○で、できたのは19○○年、さっきの船より少し新しい」。
己の博識を誇りたい気持ちも当然あるだろう。自分の好きなことについて、親よりもはるかに早く吸収していく経験は自信の源泉になるから。けれども彼の話ぶりからはそれ以上の、持て成しに近い気持ちを僕は感じた。誕生日を迎えた人間にこの時間を楽しませてあげたい、そのためにはこんな話をすれば喜ぶかもしれない、なぜなら自分はそんな話が大好きだから。奇妙な言い方だが、そういう「親心」のようなものが、白々しくも聞こえる最初のあの大人びた台詞に表れていたような気がする。
オムツを引切り無しに替えたり、白湯やミルクを口に含ませたりという、生後間もない頃にこなした親としての仕事は、世話というものを親から子に対して行うものとして強く意味づける。逆に老齢期の介護は、子から親に対して一方的になされるものとみなされる。けれども本当にそうだろうか、と思う。そういう関係性の多くは、想定された役割から考えられているよりもずっとグレーなのではないか。赤ちゃんが大人がオムツを替えやすいように腰を浮かす。お年寄りが病床から我が子の心の重荷を持ち上げる。そういう瞬間の数々が、人間というものを少しずつ豊かにするのであってほしい。