最後の通院を終えた妻を駅まで迎えにいった。スマホから面を上げたときの顔はクールだったけど、疲れたような瞼の様子からその前の時間のことが少しわかった。午前11時、外は篠つく春の雨。小っ恥ずかしくなるほどお誂え向きの情景だからこんなことを書いてもきっと許されるだろう。傘をさして、よく通ったハンバーガー屋の二階へ。ここで何度か息子と結果待ちをしたっけ。
そんなことが何度かあって、去年の手術があり、妻が退院してきたとき、これは当たり前のことではないんだと思った。これを当たり前と思ってしまうと、病気は治るのが当たり前、健康なことが当たり前、ひいては母体の無事も、子どもの健常も当たり前、そう考えてしまうようになると思った。少しずつ受け入れる方向に気持ちが変わってきたのはそこから。妻も遠目に僕の中の変化を察しながら、自分の考えをあたためていたと思う。
先生との面談の最中は泣かなかったって。これまで前向きで饒舌だった先生も、今日はずっと耳を傾けてくれていたらしい。この先生とは一度こんなことがあった。
大事な治療を前にして、自宅で打つことを指定されていた何本かの注射の最後を、副作用に怯えた妻は打たなかった。唐突なドタキャン。つまらない夫婦喧嘩が発生。翌日つれ添って病院へ行った。いきさつを知った先生は当然ご立腹。顔をしかめて「こんなことでは信頼関係にかかわる」ときた。その前にも大きな手術を成功させてくれた恩義のある先生である。「それはまた別の問題です。私たちは信頼も感謝もしていて、それにもかかわらず躊躇してしまうほど不安が高まってしまったというなんです」。やたらと論を立ててくる厄介なクレーマーが来たと思っただろうか。けれども、こちらが好意を寄せる相手に対して主張するときには真実が唯ひとつの拠り所である。「こっちももまじめに考えて計画しているんだから、軽く考えてもらっては困る」、先生まだ腹の虫がおさまらない。良好な関係を傷つけないように、真実だけを手渡す。こっちも必死だ。「重大なことと認識しているからこそ、こうして私も来て説明させてもらってるんです」。あとで妻が一人で診察室に入ったとき、先生は穏やかな顔で苦笑されていたそうだ。

「わかりました。息子さん何才になられましたか」
「六才です。今年小学校に入学しました。おかげさまで…」
「そうですか、早いですね」
「この五年間、ずっと息子にも協力してもらって。その間にこう考えられるようになりました。よくこんな私たちのところに来てくれたなって」
「妊娠はすべて奇跡ですよ」
0, 1, 2, 3, ...。これらの数が価値において無差別であるなら、出会ったことも出会わなかったこともすべて奇跡(おぼしめし)。