春。妻と息子とプールへ行き、水の中に遊ぶ二人を眺める。
プールの水に潜ると地上の音が遠くなる。そしてほかの音が近くなる。
静かな水面の下に見えていた液体の、ずっしりとした重たい流れ。その抵抗を突き破って口から排出される空気の泡のたてる音。吐く息の喘鳴。それから、それらにつられて喉の奥から漏れそうになる一続きのことば。
泳ぎを習いたての少年時、それは母親か何かの呼び名だったような気がする。もがきながら手を伸ばす先がプールサイドの固いコンクリートだったとしても、それが息をつける地上につながるものなら、子どもにとっては母と同じだった。
連れられて行ったプールで、母の手を離れ、勢いよく一人プールサイドの壁を蹴り出す。腕を伸ばし、身体の線をできるだけ細くして、水の抵抗がこの勢いを殺さずに生かしてくれることを願う。5メートル、10メートルと岸を離れていく身体、そのとき念じるように水音の中に混じって繰り返されていた言葉。やがて手と足の先が水をつかむことをおぼえ、身体が液体の浮力にのってプールサイドの間を往復できるようになっても、このリフレインは変わらなかった。呼びかける対象が母のようなものから恋人のようなものに入れ替わっても、重たい水の中からの呼びかけは止まなかった。
水のようなものの中にあって波音の間に聞く言葉は、陸上で自然に空気の中に広がり薄まっていくものの中にも同じ呼びかけがあることを教えてくれる。それは水でなくてもいい。風であれ吹雪であれ、僕らの呼吸を抵抗をもって内へ押し戻し、反響させてくれるものであれば。
すべて恋人の元へ向かう泳者、冒険者