この日、息子と妻は朝から電車に乗って隣の市のプールへ出かけた。と言っても、遊びのためではなく、もっぱら水泳の練習のためである。しかもこの日は、幼稚園で開かれていた四日間の水泳教室の三日目で、それを欠席してわざわざ片道一時間半のプールへと遠征しているのだ。なぜそのようなことになったのか。
「エンジョイプール」と名付けられたその教室の指導は、その触れ込みに反して随分スパルタンなものだったらしい。日頃から大人の恫喝的言動に慣れていない息子は、先生のオラオラ系の指示に初日から出鼻をくじかれてしまった。いけないことは何もしていないのに、先生はなぜ初めから怒っているように見えるのか。先生の声は一々なんでああも大きいんだろう。「明日はプール行かない」と半泣きで訴える息子に妻は「先生はみんなに水泳が上手になってほしいんだと思うよ。一生懸命すぎて、声が大きくなってるんじゃないかな」とヒントを与える。黙って聞きながらそこに何らかの糸口を見出そうとする息子。一日目。
体育会系のノリを克服したとしても水泳の道はまだまだ険しい。母ちゃん譲りの機敏さで、地面の上での運動は今のところ無難にこなしている息子だが、水を前にすると僕譲りの警戒心が人一倍前に出るようで、水に一秒以上顔をつけることができない。飲み込みの良い子は早くも伸ばした腕の間に顔を入れてジャバジャバ泳いでいる中、息子一人プールの隅に隔離され怖い先生とマンツーでの特訓と相成った。帰宅後、自ら志願して洗面器に顔をつける必死の練習。夜には「やっぱり明日はプール行かない」。二日目。
二日目の夜に、妻から相談を受けてふと思いついたのが、三日目だけ別のプールで自主練をするという案だった。僕自身、小学校の時に通っていたスイミング教室の集団練習ではあまり泳げるようにはならなかった。それが、三十五を過ぎてから、身体の動かし方や呼吸の仕方を自分でゆっくり考えながら練習したら一日に二キロの距離を泳げるようになったという経験があり、上手くなりたいという気持ちはあってもそれが空回りして、未だ何の切っ掛けも掴めていない現状の息子には、自分のペースで試行錯誤できる時間が必要かもしれないと思った。言葉にならない挫折感の中で悔しい思いをしている彼が、それで少しでも努力の成果を感じることができたら。
ご相談もせずこちらで勝手に判断して申し訳ありませんと、先生に断りを入れてから出発した親子。妻から「あの子、頑張ったよ」とメールが入ったときには、時計は昼を大きく回っていた。帰宅後間を置かずに、夏休み最後のイベントとして待ち焦がれていたサマーナイトクルーズに出かける。船内から響く楽団の音色、陽気な騒ぎに惹きつけられるように戯れながら飛ぶカモメの群れ。手掛りは妻からのメールと、息子の顔に浮かぶ充足感だけだっが、船上での心地良い酔いは水の中での彼の頑張りを思い描くのにぴったりだった。