手術後の体調は前日から一転、朝から39℃の熱が出る。痛みもあり座っていられないので夕方まで断続的に眠った。その夕方に、北海道からメロンが届いた。毎年のように送ってもらっているが、今回はどうやって作ったのか息子の名前の網目模様が入っている。祖母のお通夜で出会い、斎場のエスカレーターを上り下りする1才の息子を見て「こんな子が食べてくれるなら」と目を細めてくださった農家の親戚。もう10年かと思う。10年前のその一瞬を思い浮かべることはできても、横たわる時間の全体を巻き戻してそこに辿り着こうとすると深い淵に落ちて行きそうになる、ひと昔の時の重さ。
晩御飯のあと、妻がしてくれたやさしい話。「ヒドいよね、話してたら泣けてきたけど」と本人は苦しそうに胸を詰まらせていたけれど。そのあと一人で散歩に出た。一軒家が並んでいる坂道をコースも決めずによたよたと歩いていく。この日はLEDの街灯で白っぽく浮き上がった垣根の中の土や草がやけに目についた。そして薄い木造の壁と窓を通して聞こえてくる生活の音。夕食を済ませた人が食器を洗う音、家人が家人を呼ぶ声の断片。

「父ちゃんのこと心配じゃないの?」と妻に問われた息子は「そんなわけないじゃん、なんでそんなこと聞くの?」と目に涙を溜めて抗議したらしい。寝室から出てくる僕の顔を見るたびにゲーム要員として「ファミスタできる?」とばかり聞かれるから「オレのこと心配じゃないのかなぁ」と妻に気の弱い愚痴を言ったばかりだった。
一番分かっている人にそんなことを訊かせてしまってゴメン。息子にも申し訳なく、それでも心配してくれていたことが嬉しくもあった。
曰く。こういうことに関しては1才も11才も同じだと。どこかで自分は絶対に大丈夫だと信じていないと、子どもは自分の国が保てない。溢れる世界への関心が父ちゃんの命の行く末に集中してしまうのだけは避けなきゃいけないと思っている。
そうしてしてくれたのが彼女が15才だった頃の話だった。お義母さんが大腸がんになった中学3生の夏。当時一家の仕事と家事はすべてお母さんが担っていた。エラいことになったと言い残して一人荷造りして病院に向かったお母さんと入れ違いに叔母さんが家事の手伝いに来てくれた。慣れない家事が子どもの上にも降ってくる、おまけにこの叔母さんとはあまり気が合わなかった。早く帰ってこないかなと待ち望んでいた退院は予想よりずっと早く、思いがけない解放に妻は浮足立った。仕事に穴をあける訳にいかなかった母は腹を縫うなり間髪入れず家に帰ってきたのだった。中学生の娘はそんなお母さんに諸手をあげて担当の家事をすべて押し付けホッとしていた。15才の苦悩の中心は学校にあった。当時はとりわけ学校に行くのが辛い時期であった。登校したくないからわざと遅刻しようとした。家を出る時間を遅らせ、ゆっくり歩いて電車に乗り遅れようとする。遅刻と決まれば「なら欠席も同じ」と娘が言い出すのを母は知っていたから、なだめて車に乗せ学校へ向かった。短く切って繋いだ大腸はすぐに痛みを発しトイレを求める。痛みが出ると母は慌てて車を停めて外へ駆け出していった。右往左往しながら場所を探す母の姿を、娘は窓の内側からぼぉーっと眺めていた。