妻の母方の祖母の十三回忌、そして妻の母の妹の五十回忌(今年七十になる妻の母より二才年下で、二十で亡くなったから実際は満四十八年)のために寺に集まったのは九人。妻の母、妻の母の下の妹、その夫、妻と僕と息子、妻の妹と夫と息子。祖母のお通夜とお葬式に来ていた人数から半分以下に減ったのは、年月経ってその分人の死が受け入れられたということかもしれない。義母の妹に至っては、彼女の生前を知る者はもう二人になった。十二年前、通夜に来ていた妻の従姉の息子と少し仲良くなって、退屈しのぎに手をつないで斎場の敷地を散歩した。彼も無事ならもう大学生か社会人。けれどもう音信はあまりないらしい。四月、朝九時のお堂の畳は土のように冷たく、お墓に出て塔婆を立てるときの陽だまりの光は柔らかかった。帰り道、紀ノ川を渡るとき一瞬だけ暗くなって俄雨が降る。
息子が寝た後に、お母さんがコンビニでビールを買ってきてくれた。それでお母さんの部屋でお菓子をつまみながら乾杯をする。明日、市内に車で出るのに何分くらいかかるか、という話から、お祖母ちゃんが亡くなった朝の渋滞の話になった。危篤が伝えられてから病院へ向かうため車に乗ったものの、一向に進まない車列を見て、お母さんは一人で家に帰ってきた。死に目に会えないなら仕方が無い、自分はお祖母ちゃんが家に戻ってくる準備をしよう。そう思って部屋の片づけを始め、病院へは自分の娘(妻の妹)に行かせた。介護用のベッドがどかされた和室は空っぽになった。
お祖母ちゃんの次女、お母さんの妹が亡くなったのはその三十六年前のこと。それなのに、目にも鮮やかに思い起こされる、運動会、リレーのアンカーの姿。