先月のある月曜日のこと。
朝の八時頃、ソファーで放送大学を見ながら朝食を食べていると、息子を見送りに行っていた妻が息を切らせて帰ってきて、「上履き忘れたから、届けてくる」と言うが早いか、またすぐに飛び出していった。
窓の外を見ると雨が降っている。小学校の月曜日の朝。自分にも覚えがあった。上履きに限らず、笛とか教科書とか大事な宿題とか、教室に着いてランドセルを開けたときに忘れたことに気付いたときに背筋を走る冷たい感じには、月日が経っても息を詰まらせるものがある。彼は長靴を履いていったのだろうか。この天気だから朝礼は体育館かもしれない。朝礼に向かう廊下の列には靴下のまま並ぶべきか、それとも…
二十分ほどたってから妻が帰ってきた。汗を掻いて上気し、さっきよりも息が上がっている。生徒はみんな体育館に入ってしまっていたけど、先生には届けることができたらしい。
「あの子長靴?」
「うん」
「体育館にも履いていったのかな」
「それがね…」。妻の話すところによると、学校に向かう道でたまたま学校に用があり帰りがけだったお母さんに会ったらしい。それでそのお母さんが言うには、体育館の前でクラスの子に囲まれてる長靴の息子を見かけたから、その子たちに声をかけてくれたそうだ。
「わ〜、ずっと履いてたんだ」
「そう、カッポカッポ歩いてたんちゃう?」
「まあ囲まれてたって言っても、周りの子もびっくりしたんだろうしね」
「一人だけカッポカッポされたらね」
「ちょっとその『カッポカッポ』ってやめてもらえる?」
「あの竹と紐で作ったカッポカッポやで」
「わかるわ!」
それからひとしきり、多分二人で同じ絵を頭に描いて笑った。初めは靴下でチャレンジしたのかもしれない。でもすぐにざらつく足裏、チクチク刺さる小石。長靴に切り替えて行進するも廊下中に響きわたるカッポカッポ。踵と靴底が離れるのがいけないのかと思って、膝を伸ばす歩き方にするとだらだら進む列の中で一人兵隊みたいになっている。囲まれたときは「こっち見んじゃねぇコラ」くらいの虚勢は張ったかもしれない。けれども脳裏には拭っても拭っても浮かんでくる母ちゃんの顔…
実際のところはどうだったか、自身どう思ったのかは本人の話がなかったので分からない。案外ケロッとしていたのかもしれない。一生懸命の学校生活、初めのうちはこういう決まり悪いことの連続だけど、一人ではなかなか処し難いものだから、二十年とか三十年たったときに誰かに絵を描いて見せて笑うことができれば十分だと思う。願わくば互いに笑い合える友達や恋人との出会いに恵まれんことを。そしてそのときは、母ちゃんが得意だった擬音語と比喩の選択を忘れずに。