今週は息子と二人で過ごす時間が多かった。選択的にしか子どもとふれあう機会のない親の多くがそうなのだろうけど、たまに彼と二人っきりになるといつも特別な気持ちになる。同じ家族の、妻といるときとも少し違う。本当に踊り出したいほど楽しいのは妻と一緒だけど、それを面に出してしまうと目の前のシャボン玉が割れてしまいそうで息をつめるような、そういう切なさ(刹那さ)は、妻といても感じることはさすがに多くはない。その理由は自分でもよく分からないけれど、多分妻の子ども時代のことは夫は直接には知らないことと関係があると思う。僕と出会ったとき、妻はすでに自分の足で立つことを覚えた大人だった。初めてピアノの曲が弾けるようになったとき、身近な人が亡くなったとき、隣の部屋で親が夫婦喧嘩をしていたとき、妻がどうやってその時を生きていたか、その様子を夫は一生知ることがない。自分の言動が相手のカンバスに最初の線を引くことにつながるような関係の濃密さは、やはり生まれた家族のものなのだという気がする。
そういった心持ちを知ってか知らずか、二人でいると息子はあれこれと話題を工夫して、会話の糸口を探ってくる。まずは電車のクイズ。クイズ形式はこっちもボケるチャンスがでてくるのでありがたいが、彼の電車研究は今でも続いていて、まともに答えようとすると正解できるものは非常に少なくなっている。たとえば、電車が発車するときのチャイムとドアの閉まる音、走行音、減速してドアが開く音をまねして(シカゴで乗った地下鉄の音まで正確に覚えているから驚いてしまう)、その電車が何系でしょう、と聞かれても取っ掛かりがなくてボケようがない。しかたなく、僕にも答えられそうな電車の外観のクイズになって、でも写真を見せて答えさせるのも芸がないと、息子が顔の表情で電車の顔を作って、その顔のまま「何系でしょう?」と来たのには笑ってしまった。でもこのゲームなら父ちゃんもできそうだと、僕の方から問題を出したりもした、身体を張って。
母ちゃんが帰ってきてからは、鯉のぼりを出した。早いものでもう六回目。今回はこれまでになく彼も組み立てのお手伝いができた。ベランダに出してから、僕自身はさくっと部屋に引っこんでいたら、息子は窓際に自分の椅子を運んで、その上からはためく鯉たちをずっと眺めている。五月人形はMちゃんが選んでくれて和歌山のおばあちゃんが買ってくれた。鯉のぼりはじいじとばあばが買ってくれた。押入れから出したときに、僕らが話していたことを聞きとめてくれたのか否か、とにかく夕方までずっと眺めていた。