数学の法則は奥へゆけばゆくほど感動的な美しいものになる、というのが、数学の発展の歴史をみてしばしば感じされられることであり、この信念が、古代ギリシャの頃からの数学研究を支えてきた原動力であった、と思える。しからば、奥へ奥へとどんどんゆけば、どうなってゆくのであろうか。しまいにはあまりに深く、みているだけで感動の涙が出るような法則になっていると考える他はない。そのあたりでは、たとえば映画『砂の器』の「父子彷徨」の場面で映画館内の観衆が泣いたという、また映画『火垂るの墓』で観衆が泣いたという、そういう深い感動の状況が生まれるのではあるまいか。奥の奥にある法則が、あまりに感動的なために宇宙が生まれた。言いかえると、宇宙は感動から生じたのではあるまいか。
加藤和也素数の歌が聞こえる』

こんな調子の文章にあふれた本ではあるけれど、春休みに読んだこの本はなかなか凄い一冊だった。一般向けに書かれた本だから、証明によって厳密に論述がなされているわけではないけど、その分、著者の専門である数論における成果が、著者がそこから受けた感動とともに情感豊かに描かれている。数学的にも、難しい問題が可能な限りシンプルな形に書き下されていて、感動の源になっているそのエッセンスだけでも分かってもらいたい、という著者の気持ちが切ないほどに伝わってくる。
どうやら数学における感動とは、二つの異なる世界に、これまで見えていなかった逢瀬の道筋が発見されること、ということらしい。たとえばヴェイユ予想は、方程式の、有限体における解の個数(有限体を司る素数の心)と、その方程式が複素数の世界で描く図形の様子とのあいだに、思いもよらなかった結びつきがあるということを言っているし、谷山・志村予想は、素数の心の部屋と、保型形式という解析学の世界のあいだに、誰も知らなかった深い対応(心の交流)があるということを教えてくれる。そしてその通路に立って、愛の歌を歌っているのが素数であり、ゼータ関数である、ということのようだ。
ゼータ関数というのは、
ζ(s) = 1/1^s + 1/2^s + 1/3^s + ... = Σ(1/n^s)
のように定義された関数で、オイラーは、
ζ(2) = 1 + 1/4 + 1/9 + ... = Π^2/6
という解を求めたとき、右側に円周率が現れることに大変な感動を覚えたらしいし、ライプニッツは、
1 - 1/3 + 1/5 - 1/7 ... = Π/4
という等式(これもゼータ関数の一種)を発見したときに、数学者になることを決めたという(ちなみにこの等式は、Arctan(x)のマクローリン公式にx=1を代入すれば出る)。
このようにゼータ関数自体が、整数と円という全く異なる世界が結びついた不思議な存在なのだけど、他にも、数学の宇宙の至る所に現れて、ばらばらだった世界を和解させる、ということをやっている。そうして引き合わされた連れ合いの中に、実数の世界と、p進数の世界というものがある。
p進数というのは、1と2よりも、1とp+1、それよりも、1とp^2+1、1とp^3+1、...の方が「近い」という、実数とは異なる新しい遠近感によって作られた数で、ゼータ関数は実数的な遠近感とともに、p進数的な遠近感をも備えている。他にも(ハッセの原理が示すように)、有理数は実数の世界にもp進数の世界にも含まれているから、有理数に関することは、両者を対等に扱うことによって分かってくることが多い。これらに見られる、実数の世界とp進数の世界の対等性は、何を意味しているのであろうか?著者は、宇宙は時間と空間を示す4つの実数によって(t, x, y, z)のよって表されるように見えるけれど、実数の世界とp進数の世界が合わさったのが、私たちの宇宙の本当の姿なのかもしれない、という。宇宙の上の方には、「ゼータのすみか」というようなものがあって、ゼータ関数はそこから「定義されるために」実数の世界におりてきて、また、あふれる思いをおさえかねて、p進数の世界にもおりてくる、というようなものなのではないか、と。

われわれは三つの実数の組 (x, y, z)でとらえられるような味もそっけもない存在ではない。p進数体もまざった「何か」である。われわれは、「もののあはれ」の住む所、「ゼータのすみか」に関係しているのである。

どんどん狭く小さくなっていくように思える世の中で、今、これほど読者を勇気づけてくれる言葉があるだろうか。著者は、著者の中に宿る数学の心が、物の世界を豊かに広げるさまを通して、誰の胸の内にもしまわれている詩の心に、心の世界を広げることを誘っているように思える。