昨日書いたことを修正。Li(n)に、n回の酔歩の表と裏の差を加えた関数f(n)は、nの増加関数になることが保証されないという意味で、π(n)とは明確に区別されうる。Li(n)との差が、n^1/2より大きくない次数の無限大になるという意味では区別できないとしても。ζ関数の零点が受け持つ誤差項は、それ自体が振動しながら、どのようにしてπ(n)が増加関数であることを保証しているのだろう。これを知るには零点の分布がπ(x)に及ぼす作用をより具体的に知る必要がありそうだけど、教養過程レベルの数学的知識を前提としたあの本ではそこまで扱い切れないのだろう。手堅く複素関数論から復習しなおして、入門書でも読んでみるか。そんな暇あるのか?
今日は息子が、同期の子たちと大人数で近場の公園に遊びに行ったのだけど、妻の話を聞くと、息子もあの年でもう結構な荒波に揉まれてるようだ。試練を受けた後の息子の反応についての話がとても面白かったのだけど、それがあまりに可愛らしく、息子のプライバシーにさえかかわってくるような胸に迫る内容でもあるので、ちょっとここでは書くことができない。いままでは比較的遠慮なく書いてきたけど、今後はそういうことが増えてくるのだろうな。少しさみしい。
それにしても今日のアクシデントへの対処の仕方といい、妻の問題処理能力には毎度のように頭が下がる。僕が仮にそこにいた場面を想定しても、ショックを受けた息子の感情の忖度から、息子にかける言葉の選択、ママ友やその子どもへの対応まで、考えなければいけないことが多すぎて、とてもワーキングメモリの容量がついていきそうにない。かかわる全ての人の心中や状況が刻々と変わる中、遅きに失することなく当事者としての判断を下さなければならないのだ。愛する息子への但し書きのつかない共感が先に来るとしても、そこに際限なく同調して共に嘆いているだけでは息子にとって出口がない。こういう事態に直面した時に、どのような心構えと振舞いをとることが将来の彼にとって財産になるのかを計算し、それを自分の言葉と行動で伝えることで、彼に一定の方向性を示してあげなければならない。それは他の子どもに対しても同様で、悪気なく行動した子どもの意図や、自分の子を大目に見たがる親の気持ちに対して十分に共感した上で、子どもの世界のルールを尊重し、親がその領域を侵犯することを諌める態度を示さなければならない。おそらく妻の中では、この感情と理性の切り分け、心と行動の峻別がはっきりとした形で出来上がっているのだろう。そうでなければ、育児書や人づきあいのマニュアルにしたがった対応ではとても乗り切れない事態が繰り返される子育てという難行を、ここまで見事にこなせないと思う。その峻別を担っているのは、多分強い信念に裏付けられたある種のプリンシプルで、それを踏まえた上で自力で考え出された自由な発想が、彼女の言動を華麗に指揮しているのだと思う。自分が決してできないことを毎日成し遂げている人間への尊敬の気持ちを持ち続けられる生活に、毎日幸せを感じている。今日の話を聞いた僕の反応が「オレだったら、その親子共々ぶん殴ってるよ」だったから尚更。