素数定理: π(n)〜n/log(n) を大雑把に解釈すれば、n番目の素数をp(n)としてp(n)〜nlog(n)と見ることができる。したがってpを素数として無限級数Σ(1/p)を考えると、以前の日記で作った式を使って、
Σ(1/p)〜Σ(1/nlog(n))〜∫(1/nlog(n)dn〜log(log(n))
となり、素数の逆数の無限級数は発散することが分かる。
これより遅いペースで発散する関数log(log(log(n)))から、今度は積分級数の順で辿ると、
log(log(log(n)))〜∫1/nlog(n)log(log(n))dn〜Σ(1/nlog(n)log(log(n))) -(1)
nlog(n)は素数の挙動を調べるのに使えた。では式(1)の右辺の分母に現れたnlog(n)log(log(n))がその漸近挙動を表す、自然数による数列はあるだろうか。そこでまず「素数」、ではなく、「素数番目の素数」はどうだろうと考えたが、事はそこまでstraightforwardではないようだ。n番目の素数がnlog(n)で表せるなら、n番目の素数番目の素数は、nlog(n)log(nlog(n))=n(log(n))^2+nlog(n)log(log(n))で表せる。n番目の素数がnについて、log(n)というファクターで引き伸ばされると考えると、一次的直観から、n番目の素数番目の素数は(log(n))^2というファクターで引き伸ばされるが、nlog(n)log(log(n))は、その一次的近似に対する補正項として現れる式であるようだ。試しにその値が四捨五入して2になるものから100になるものまで書き下すと、
2,4,5,7,8,10,12,14,16,18,20,22,25,27,29,32,34,37,40,43,45,48,51,54,57,60,63,66,70,73,76,79,83,86,90,93,97
この範囲では素数列より密な数列であるが、巨大な数になると当然素数より疎らになる。
さて、素数の逆数の無限級数は発散するが、素数番目の素数の逆数の無限級数の挙動はどうなるだろうか。
1/(n(log(n))^2+nlog(n)log(log(n))) < 1/n(log(n))^2より
Σ(1/n(log(n))^2)を考える。
Σ(1/n(log(n))^2)〜∫(1/n(log(n))^2)dn〜[-1/log(n)](0,∞) = 0となるので(正の値の無限級数が0に収束するはずがないが、収束・発散を定性的に調べているだけなので問題ない)、
∫(1/(n(log(n))^2+nlog(n)log(log(n))))dnは収束する。つまり素数番目の素数の逆数の無限級数は収束する。
今のところ数論は、素数のふるまいを調べる学問ということになっていて、「素数は美しい」という標語が当然の価値観のように語られるが、個人的には素数への関心やその重要性は、数学の発展を促してきたもう一つの潮流である物理学への関心やその重要性と比べると、それほど自明ではないように思われる。素因数分解の一意性から「素数自然数の原子である」と、物理学のメタファーで語られても、それは足し算→掛け算→累乗という算法の、下から二番目に殊更拘って生じる結果であり、最も単純な算法である足し算を基準に考えれば、自然数の原子は1だ、ということになる。しかし、足し算と1の数学だけを考えていても数学はほとんど発展しなかっただろう。素数が関心を持たれるのは、それについて考えてみたら案外の曲者で、意地になって探求を進めた結果、信じられないほど複雑で意外な数学的世界が広がってきたという歴史があるからで、2,3,5,7,11,13,17と連なる素数列を眺めて、美しいと言っている人がいたとしたら、僕はそれに対して疑念をもつ。そういう人は、例えば2進法で書かれた、10,11,101,111,1011,1101,10001という数列と10,11,101,111,1011,1101,10101という数列を区別して、前者を美しいと言わなければならない。神秘的とされる円周率の並びだって、2進法で書けば、11.00100100と身も蓋もない。だから美しさは素数そのものに内在しているというよりも、素数の研究を通して、互いに別個と思われていた認識の枠組み(例えば物を数え上げていく算術的認識と、物の量の極限を捉える解析的認識)が統一されたり、対応が見出されたりする意外性や、その到達点から見渡せる辿ってきた道筋の遠景から受けとる、人間の達成感の表現なのだと思う。ガウスが「数論は数学の女王である」と言ったのは、決して天下り式の教説ではなく、数論が数学に対して常に新しい理論の生産を促してきたという歴史を踏まえた上での言葉なのだろう。当面の素数の謎が全て解かれたとしても、人間は、素数番目の素数や、素数番目の素数番目の素数や、累乗や階乗で表せない数に対して何らかの名前を与えて、またその研究に没頭していくだろう。それは人間が所与の認識の形態の中で、どこまで深い言説(=数学)に到達できるかを試みる修練のようなもので、造物主の存在を前提とするか否かは別にしても、目の前の世界が創られた意図、設計図を完全に理解すれば良しとする物理学の動機のナイーヴさとは、かなり趣きの異なる営みであると思う。物理学でしばしばTOE(Theory of Everything)が究極の目標とされるのに対して、数学でそれが語られることが少ないのは、数学がその本性において自己の内にどこまでも沈み込んでいく自律的な反省の営みであることの現れではないだろうか。