3月16日のエントリーを書いてから、昔NHKで放送されていたリーマン予想についての番組を思い出し、急に読みたくなって買ってきたのがこの本。

素数に憑かれた人たち ~リーマン予想への挑戦~

素数に憑かれた人たち ~リーマン予想への挑戦~

理解できたところと、疑問として残ったところを記憶が鮮明なうちに書きとめておく。
リーマン予想とは「ζ関数の自明でない零点の実数部は、すべて1/2である」という命題だが、リーマンがこれを発表した論文の題名が「与えられた量よりも小さな素数の個数について」となっているように、この問題についての関心は、素数の分布の仕方に向けられている。本書の数学面での主目標も、素数の分布とζ関数の自明でない零点とのつながりを示すこと、とされているので、まずπ(x)とζ(s)との関係についての本書の論述にしたがって超簡潔にまとめてみる。
π(x): 正の実数xより小さい素数の個数
少年ガウスが予想した素数定理は、
素数定理: π(x)〜x/log(x)
この式は、x周辺の素数の密度が1/log(x)であることを示していることから、素数定理積分表示型として以下のものを考えることもできる。
素数定理(改訂版): π(x)〜Li(x)≡∫[0→x]dt/log(t)
実際この改訂版の方が良い近似になっている。
ζ(s): Σ(1/n^s)。調和級数Σ(1/n)を含む、正の実数xを定義域としたΣ(1/n^x)を、解析接続によって複素数sまで拡張したもの。
算術の基本定理(素因数分解の一意性)により、
ζ(s)=Π(1-p^(-s))^(-1) -(1)
J(x)として以下のものを定義する。
J(x)=π(x)+1/2*π(x^1/2)+1/3*π(x^1/3)+… -(2)
(1)の対数をとって右辺を変形すると(この式変形の過程はは数学的洞察に富んでいてとても美しい)、
1/s*log(ζ(s))=∫J(x)x^(-s-1)dx -(3)
となる。
(2)を(3)に代入するとζ(s)をπ(x)によって表すことができる。
では逆にπ(x)をζ(s)によって表すことはできるだろうか。
μ(n)を、
・nが1なら1
・nが平方数の倍数なら0
・nが奇数個の素数の積なら-1
・nが偶数個の素数の積なら1
と定義して、(2)をπ(x)について解くと、
π(x)=Σμ(n)/n*J(x^1/n) -(4)
一方、(3)をJ(x)について解くと(この式変形はリーマンが行ったものだが、難解すぎるためか、本書では追跡されない)
J(x)=Li(x)-ΣLi(x^ρ)-log(2)+∫[x→∞]dt/t(t^2-1)log(t) -(5)
と書ける。この式にζ関数は含まれていないが、ρはζ関数の自明でない零点である。したがって(5)を(4)に代入することによって、π(x)をζ関数の自明でない零点で表す式が完成する。すなわち、ρの分布が完璧に分かれば、それにしたがって任意のxについてπ(x)を正確に計算することができる。以上。

さて、(5)の右辺には、4つの項があるが、第1項が素数定理(改訂版)の右辺であり、第3項と第4項が相対的に小さいことを考慮すると、第2項の-ΣLi(x^ρ)が、π(x)のLi(x)からの誤差を表す主要な項とみなすことができる。僕はρが複素平面上に占める位置によって、この誤差がどのように変動するか、というところがよく分からなかった。素数定理は、「ρはすべてのその実数部が1より小さい」という命題から証明することができ、実際にアダマールとプーサンはそのようにして証明した。また、フォン・コッホは、「リーマン予想が正しければ、π(x)=Li(x)+O(x^1/2*log(x))である」という結果を出した。これは「π(x)とLi(x)の差が、x^1/2より大きくない次数の無限大になる」ということと大体等しい。リーマンが予想するρの実数部の1/2は、フォン・コッホの式の1/2と同じだろうか。もしそうだとすると、(3)は個人的にはラプラス変換フーリエ変換のようなもの(きわめて不正確な言い方であることは承知で)なのではないかと想像して楽しむことができる。(3)の変換によって得られたζ関数の零点は、誤差項の増大と振動に関する情報をもっており、その実数部は増大を表し、虚数部は振動を表している。実数部が1を超えると、指数関数が発散するように誤差項は増大し、素数定理は成り立たなくなる。x=1/2上に並ぶρの列は、そのままπ(x)のLi(x)からの振動を表現している。
こんな素人の想像はともかくとして、フォン・コッホの結果がリーマン予想の内実だとすると、これは素数の分布についての案外凡庸な描像を示しているのではないだろうか。N回のコイントスを行うと、表が出る回数と裏が出る回数の差の期待値はN^1/2となる。ある関数f(x)を、Li(x)からx回の酔歩に相当する分だけずらしたものとして定義すれば、それはπ(x)と統計的に区別できないものになるのだろうか。素数の分布の神秘性とはその程度のものなのだろうか。おそらくこちらの理解が足りないところが多分にあるのだろうけど、もしこの推測が正しければ、これは僕にとって膨れ上がった素数の幻影を引き剥がすに十分なショッキングな知らせだ。こんなことを言ったら専門家に色々な意味で怒られるだろうけど。
僕はアカデミズムのトップで活躍する数学者や物理学者は、この世で一番頭の良い人たちの一群だと思っている、という意味で数学・物理帝国主義者だけど、フェルマー予想ポアンカレ予想がそれぞれ解決に360年と100年かかり、リーマン予想がその発表から150年経っても解かれないという事実は、人類の叡智を物語るというよりも、個人の才能の限界を示すヒントのような気がしてならない。世界で一番頭の良い人でも、リーマン予想さえ解けないのだと。同様のことは他の分野に対しても言えるかもしれない。どれだけ音楽の才能があっても、モーツァルト・レベルの音楽しか作れないし、グレン・グールドの程度にしかピアノを弾けない。どんなに足が速くてもウサイン・ポルトより速く走ることはできない等々。ペレルマンモーツァルトもグールドも、最難関の分野で最高の実績を残すという目的のために、有り余る才能を幼少期から親に鍛え上げられてきた人物たちだ。彼らはその期待に応えて実際にそれぞれの分野で頂点に立って見せた。それなのに、彼らの人生があまり幸せそうに見えず、それどころかその作風に悲壮美さえ漂って見えるのは何故だろう。数学や音楽やオリンピック競技は、才能ある者を引きつける悪魔の壁のようなものだと思う。一流でしかない者は壁に到達する前に超一流との差を見せつけられ、超一流は壁に頭を打ちつけながら自分が決して神になれないことを思い知らされる。これらがどれも大人が熱心に子どもに教育したがる分野であることは、才能の有る無しに関わらず、人生の幸福を考える僕らに重大な示唆を与えてくれているように思う。