昔、テレビでやっていたリーマンショックの番組の中で、自動車工場から派遣切りされた労働者がインタビューに答えていた。
「誰にでもできるような仕事だったから」
悲しい言い方だと思った。それ以上に、間違った言い方だと思った。
部品をカートに積んで組み立てブースまで運んだのはあなただ。あなたの口にミルクを運んだのはあなたの母親だ。
別のパートの主婦はこんなことを言っていた。
「一生懸命働いてきて、自分が携わった車は、どこかを走っているはずだけど」
彼女が携わった車が誰の手に渡ったのかを彼女は知らない。けれどもそれは確かに誰かに届いたのだ。今僕が見つめているモニター、腰かけている椅子、コンセントから失敬している電気。誰かが組み立てたり、設計したり、作り出したものは、今使う人の手元にあって、僕らの生活と仕事を助けている。このことを否定できる消費者はいない。けれども時が経って耐用年数を過ぎたとき、彼らの努力の意味はどうなるのか。今や、彼らの作り出したものは何ものでもなかったということになるのだろうか。僕らがどう足掻こうと、物の命とはどの道、引き延ばされた滅びの泡沫なのか。
昔、アインシュタインという人が、世界の実体は時空なのだと言った。時間は空間の中を素っ気なく流れていくのではなく、空間と組み合わさって建築の梁と支柱のように世界を組み上げている、という意味だ。この観点から見れば、今(現在・同時)という考えは相対的なものでしかなくなる。どういうことか。
あなたが一週間前に作り上げた車が法定速度で他の人のもとに届けられて、今はその人の現在になっているということがヒントになる。車を、空間を占める物体としてみれば、それは鉄とゴムと油の塊りであり、どれだけ手厚く保管しようと風雪の中に滅んでいくしかない。けれども、あなたが車を作ったという事実(事象という)は、時空という堅固な四次元多様体の中の一点として永遠に消えず、その余波は彫刻刀に刻まれる線のように世界を造形して無限遠まで走っていくということだ。あなたの行為は、1秒後には三十万km彼方の現在になる。1.3秒後には月の現在になり、210万年後にはアンドロメダの現在にもなる。
この信仰を生かすには、地上の、宇宙のすべての場所に友人がいると思えばよい。そう思えないなら、記憶という、時空の構造を模した代用品を覗いてみたまえ。あなたの行為の真価は、友人たちの代わりに、あなた自身が覚えている。