震災以来、報道やその在り方から受ける不安定でネガティブな感情を落ちつける意味合いもあって、空いた時間を使って大学の教養課程の数学(微分積分線型代数、確率統計)を見返すということをやってきた。この辺りの分野は、大学院受験時に比較的まじめに勉強していたところなので、数学的内容そのものについての新しい発見というものはあまりなかったのだけど、これを大学初年度に履修させている現行のカリキュラムを考えると、改めて思うところはあった。というのも、これらの数学で展開される内容は、微分積分にしろ線型代数にしろ、高校で学ぶ内容の一般化や厳密化に過ぎないと思われるところが多くて、確かに高校数学とは一線を画した論証の精緻さや応用範囲の広さに魅了される向きも無きにしも非ずではあろうけれど、大学で学ぶ学問への期待が大きい一年生たちの多くには退屈な印象を与えかねないと思ったからだ。大学で学ぶ数学で、高校数学の知識から直感されるような自明性から離脱して、論理の力をもってしか見通せないような非自明的な世界に入っていくのは、(個人的な趣向の違いはあるにせよ)三次元空間ではグラフ化できない複素関数論や、群の定理を用いて整数や方程式のさまざなな性質を明らかにしていく代数に入ってからなのだが、これらは現行のカリキュラムでは大学二年度以降に設定されている。ここに至る前の段階で、容易に結論の想像できる定理の証明や煩雑な練習問題を通して学問そのものに飽きてしまってはとてももったいないと思うのだ。このことは自分が専攻した物理についても言えることで、大学初年度に学ぶ力学や電磁気学の結果を理解することは、高校物理をしっかり押さえていれば、それほど難しいことではない。物理が面白くなるのも、(これも個人的な意見だが)力や加速度といった素朴な概念から飛躍して、変分原理を使ってより一般性のある形式で記述する解析力学からなので、できれば気持ちも新たな一年の段階でこの分野に入っていけるのが理想だと思う。
中高一貫進学校では高校二年までに三年までの範囲を終えてしまって、残り一年は受験のための準備に費やされるところが多い。この一年間に繰り返し行われるのは、ひたすら既知の公式を使い回して想定問題を解いていくという作業で、この結果確かに公式の運用にはソルジャーのように習熟していくのだが、その過程で学問的に何か新しい知見が開かれるということはほとんどない。学生たちがこの一年間で、答えの用意された問題と、その正解に対して与えられる報酬(=偏差値、順位)という単純な学習スキームに、実験動物のように従順に没頭してしまうのは、intelligence全体の行く末を考えた時、非常に大きな損失であると思う。既知の公式を使って、ある枠組みの中でのみ通用する解を導き出していくという振舞いは、官僚的営為の定義そのものであるし、単純な問題を解く正確性のみによって自身の優越性を確認していく過程は、人間から創造性への志向を奪い去っていく危険性をもっている。創造性なき場所にsupremacyを見出した人間に対して、己の優位性を維持するために他の人間を管理する立場に立とうとする動機づけが働くであろうことは想像に難くない。人を管理する仕事が悪いと言っている訳ではない。官僚が官僚らしく振舞うことを貶しているわけでもない。単純な問題への正確な解答によって得られる満足は、それが序列的な優越感を伴う場合、学問や創造性にとって大きな敵になるということ、職務上さしたる卓越性を求められない官僚職に本来優秀なはずの人間の多くが就いてしまうのは、この条件付けに躾けられてしまったことが原因なのではないかということを、残念に思っているだけだ。これは僕自身が面白みのない受験期を過ごしてしまった反省から言うのだが、高校の勉強を終えた受験生は自分の興味の範囲で、そのまま大学の勉強に進むのが良いと思う。数学や物理に限らず、英語が好きな学生はそのまま辞書と首っ引きで洋書に当たればよいし、社会が得意な学生は社会科学の専門書に進めばいい。一つ言えるのは、大学の勉強をしたからといって受験問題が解きにくくなるということは絶対にないということだ。むしろ一般性の高みから見下ろすことによって、受験問題がいかに姑息なトラップに満ちたtrivialな問題かということが見えてくるだろう。そして一冊の本を読み終わったら復習もそこそこにどんどん次の本へ進むこと。序列でなく、未知の分野を開拓していくことによって己のpotencyを確認していくことが何よりも重要だと思う。