僕たちの中にあって、僕たちの言葉の源泉となるのは常に他人の言葉に感応する力である。別々の時代と場所に生まれ、方々に散らばっていった同胞によってそれぞれに捉えられた世界像は、僕たちの世界像と単に同意・不同意の関係にあるのではない。電場について成り立つ法則がある変換を通して磁場についても成り立つように、あるいは大抵の文章が翻訳を通して任意の外国語に移し替えられるように、それらは多くの場合双対的(dual)な関係にある。この世に散らばる無数の世界観は、さまざまな変換、裏返し、移し替えを通して、僕らの中に呼応する部分をもっている。他人の言葉の体系は、外国語の文法事典のようなものである。それを読解する力を学ぶことによって僕たちは自分の裏側にある世界の法則を知り、相互に行き来する思考の自由を得ることができる。
人は傷つくたびに優しくなれるという言い方がある。残念ながら僕たちの多くは、歌謡曲に酔う非日常的時間を除けばそのような言い回しを信じるほど無垢ではない。幼い頃の人間は、人から受ける行為を通してしか行動の様式を学べない経験的な存在であるし、また人には応報感情という仕組みが埋め込まれているので、自分が外から受けた仕打ちを、外に対してやり返すための条件は、多くの人間にとって容易に取り払えるものではない。ただ僕自身に限って言えば、この言い回しの逆、つまり、「優しい人間はそれだけ傷ついてきた人間である」、を信じる程度には無垢である。人は他人の行動を通してしか自分の行動の仕方を学べないと同時に、自分の感情を通してしか他人の感情を想像することができない。人を傷つけることを思いとどまらせる意志の源は、自分が傷ついた経験の想起以外にないと信じるからだ。そしてそれを踏まえた上で、やはり自分の子どもには優しい人間であってほしいと思う。子ども番組を見ていると、子どもの視線をくぎ付けにするその出来栄えに感心すると同時に、そこに映し出されている「みんなでなかよし」の理想、安心安全を旨とする世界観に不安を覚えることがある。現実には仲良くなれない人間とも何とか付き合っていかなければならないし、大人の言う安心安全を疑ってかからなければならない時もある。明らかに現実は子ども番組のようには成り立っていない。だからといって、まだ年端も行かぬ子どもに、この世の厳しさ、過酷さばかりを予見として与え、疑心暗鬼に陥らせるという方針にも偏りがある。厳しさや過酷さは、ある意味でそれを語る大人自身の個人的な挫折と結びついているからだ。この世界には、子ども番組から除外された不条理が溢れているが、同時に子ども番組では描き得ない法外な喜びも待ち受けている。リアリティーは、子ども番組や大人の説教から遠く離れた場所、真の喜びと悲しみが十字架のように交差する地点に根ざしている。子を育てる親として、安易に浮遊したり地べたを這いつくばったりすることなく、底の深い岩盤を常に踏みしめていかなければならないと思う。優しさとは畢竟、現実を踏みしめる力であるからだ。
ゴールデンウィークに会って話した友人は、子どもがいないにもかかわらず、僕のこのような葛藤に共感してくれた。仕事を旅路を歩む杖に譬えた人がいるが、友人は別の道を通って旅を続ける輩(ともがら)だ。折にふれ、休憩所で落ち合う友人との時間はかけがえがない。