また随分日がたってしまった。この間結構色々なことがあったような。ともあれ春休み後半の話。
和歌山から帰って三日後、歩道の桜がちょうど満開になった日に、今度は和歌山からお客さんがやって来た。妻の妹と甥っ子。彼らがこっちに来るのはちょうど二年ぶり。前回のスカイツリーやら東大やらに続いて、今回もいろいろと東京見物のプランを考えてきてくれた。着いた日の翌日から国会議事堂、と聞いたときは、慌てて正直そこまで心躍らなかったけれど、その界隈で仕事をしている友人に連絡をとり、見所なんかを聞いているうちに、少しずつ楽しみになってきた。Google mapでその辺りの地理を眺めていると、東京駅から2kmかそこらしか離れていないのに、行ったことのない場所、名前は聞いたことがあるけど、そこにあるとは知らなかったような場所がいくらでもある。国会議事堂が霞ヶ関と道路を挟んで直に接しているというのも今一つピンと来ていなかったし、そのすぐ北に最高裁判所があるということも全く知らなかった。半径1kmの円内にきっちり収まりそう。三権分立とはいっても、これらの三つは文系の「エリート」にとっては就職先の最後の選択肢にあたるわけで、大学卒業までの間は同じ遠景に収まる一つに権力に過ぎないだろうし、多くの一般市民にとっても「お上」であるという意味での存在感に大差はないだろう。まるで運転免許試験場の近くに教習場があり写真屋があるような気安さで三権が並んでいるのは、我々の意識にとっても特に不自然なことではない。
実際の国会議事堂は思ったよりもずっと大きてきれいだった。中庭も広く、議会での仕事が終わった後、ここでこっそりタバコを吸ったら旨いだろうなと思った。玄関前の敷地内の道も幅広で、黒い国産のハイヤーが継ぎ目のない路面を舞うように走り抜けていく。妻か妻の妹が「こんなところで仕事できたら、そりゃやめたくなくなるよね」と言っていたが、建物の格式も、都道府県の草木を集めて植えた遊歩道の美しさも、枢要な場で働いているという陶酔感の提供において抜かりはないという感じ。そしてその陶酔は、何を見えなくさせるためかというと、やはり実際に登院して振るうことのできる権勢の小ささであろうと思う。この日は晴れていて、霞ヶ関のビル群がよく見えた。国会自体が丘(Capitol Hill)の上にある訳でもなく、行政機構の屋上から見下ろされている気がした、と書くと、中心はまるでそっちにあるかのようだが、行政もやはり大量の人員が設計図通りに動く機械なのであり、中の人間は陶酔感とは別の薬をふりかけられて中心への視界を遮られているに違いない。この辺りの人間の、舞台の主人公のように背筋を伸ばして風を切って歩く姿は、何かを見てしまった詩人が目を覆いながら俯いて歩くのと対照的だ。
千鳥ヶ淵まで徒歩圏というので、皇居の濠まで歩いてから北上した。子どもにしては体力のない方ではない甥と息子が、「疲れた、疲れた」と不平を言い、道端の桜に一切の興味を示さずに苦役のように歩いているのを見て、花見は本当に面白いことなのだろうか、と疑問が湧いてしまう。実際、ここまで遠出をしなくても、皇居に咲くソメイヨシノも、家の近くのアパートの塀の脇に立つソメイヨシノも、遺伝的にはまったく同じクローンだというではないか。半蔵門の公園について、滑り台を発見し、そこで桜の花びらを地面にふれる前にキャッチする遊びを考え出したとき、彼らの顔に、家を出てから初めて生気が戻ってきた。