誕生日辺りからつまらないことが起こって、騒動のなか心に鬱積してくるものがあり割と苦しかったんだけど、さっき妻とゆっくり話して、ようやくわだかまりが収まっていく気配。キーワードはやっぱり「親離れ」ということなのかな。否が応にも人間性形成の鋳型であったこの関係から離れるのは本当に一筋縄ではいかなくて、「期待しない」ことも含めて本当に一旦は「捨てる」ところまでいかないといけない。そう思うための手がかりを心の中に探ったとき、親からはっきり自立している何人かの友人の姿が浮かんできた。こういうところでも助けてくれるんだから友達というのはありがたい。
今日はベランダの手前までふき込むような雨。近所の梅の花もこの風で落ちてしまって、嵐が明ければ桜のつぼみが芽吹き始めるのだろうか。そして気付けば卒業、入学のシーズン。
妻が役員を務めた父母会の活動も大詰めで、ここ最近頻繁に幼稚園に足を運んでいる彼女から聞く子どもたちやママ友の話は楽しかった。最後の父母会でお母さん方が一人ずつスピーチを始めたとき、「ごめんなさい」と言いながら泣き出した一人のお母さんから端を発して、先生も含めた教室が涙の渦に包まれた話に胸が詰まる。以前、妻が自分の子育てでの躓きをママ友に話すと決まって「○君でもそんなことあるんだ」と驚かれるという話を聞き、そこにステレオタイプな優等生としてのレッテル貼りを感じ寂しく思ったこともあったけど、何のことはない。うちらだってやんちゃなあの子が家ではそんなに可愛い素顔を見せていたなんて、感情をあまり面に出さないあの子がそれだけ頑張って登園してたなんて、それを見守るお母さんがどんな気持ちだったかなんて全然知らなかったじゃないか。人間というのは会って話せば、その人が築き上げてきた土台の厚みは何となくわかってしまうもので、この幼稚園はそういう意味で先生にも父兄にもしっかりした人が多かった。それでもやっぱり具体的なことを聞かないと、その人が何に苦しんでここまできたのかまでは分からない。人が歩いてきた道に敬意を表すために、笑顔や挨拶があるんだよね。
「子どもが成長したと感じたこと」というお題で回ってきたスピーチで、妻はこの話をしたらしい。僕だったらそれに加えて何を話すだろう、と考えて思い浮かんだのが、転校してきて昼休み一人でいた子に「一緒にお弁当食べよう」って声をかけていたという話を先生から聞いたことだった。僕の考えでは、それができれば人としてもう十分なのだけど、彼は結局そのことをうちらに話さなかった。大事なものを当たり前のこととして心の中に育んでいくのが成長だとするなら、それは子ども自身に任せるしかない。子どもの力を信じる先生や父兄たちに見守られた彼の幼稚園生活は幸せだったと思う。