外に出るようになったきっかけは、犬の散歩だったような気がする。三月のうちは世間と同じく僕らも家の中に引きこもっていた。有り余る時間の中で息子はYoutubeという遊びを見つけ、ついには動画の投稿に手を染めるようになった。一緒に買い物にと誘っても、もうついてくる年齢ではない。他の投稿動画の分析、と称して自身の部屋のドアをピッタリと閉めきり、そりゃあ分析もしているのだろうが、何やらゴソゴソと勤しんでいる。買い物先で出会う親御さんたちに話を聞くと、彼らも懸念していることは僕らと同じでホッと胸を撫でた記憶がある。体力の低下、友だちとの交流が絶たれてしまうこと。
時計の針は止まっているのに季節は進んでいく奇妙な感覚。ベランダに出ると、木々の緑が明るさを増し、風の中にも心地よい温度が混じっているのに、戸外には相変わらずほとんど人影がなかった。撮影のために特別に人を払った映画セット、あるいは人物が写らないほど引いて撮った航空写真みたいだと思ったけれど、埃っぽい骨組みとして残された街並みには独特の美しさがあった。たしかその頃だった、首相か誰かが国民に向けた記者会見でこう言ったのは。散歩は問題ありません、と。だったら犬の散歩もオーケーだよね!
犬の散歩。最初のうちはそのお題目が生きていた。近所の実家に滞在していた甥や、たまたま公園で出会った息子の友人たちは、リードを取って走ったり、ボールを投げたりしてワンちゃんと遊んでくれた。外での運動にお墨付きをもらって、公園内を駆け回る彼らの顔は生き生きとしていた。友だちに会いたい、外で遊びたいという気持ちが自分たちの中に眠っていたことに今さら気づいたかのような驚きが、彼らの体の中に弾けていた。
ワンちゃんの方も人見知りせず、初めて会う子どもたちの相手を務めた。元気な子どもたちに揉みくちゃにされながら、そこに身体の成長期が重なって体重はあっという間に家に来たときの二倍くらいになった。体力、走力の目に見えて向上していく仔犬の成長にひそかに脅威を感じつつ、兄貴面を維持したい子どもたちも負けじと息を切らせて走り回る。
基本的に犬のリードは子どもたちに任せるようにしていた。子どもの性格上、初めから名前を呼んでにじり寄って来る子もいれば、遠巻きに見ているだけの子もいる。慎重なタイプの子にも、いくつかの注意点を話してリードをあずけ、犬と二人だけの時間を過ごしてもらうと朗らかな顔になって散歩から戻ってきた。友だちとワイワイ騒ぐのが性に合わない子にも外出のささやかな楽しみが少しずつ芽生えているように思え、それぞれの子どもの意向に合わせて自身も楽しめる犬の能力に頭が下がった。家に帰ると妻はワンちゃんの頭をワシャワシャにして労っていた。
日が経つにつれて集まる子どもの数はどんどん増えていく。夕方近くになると家のチャイムが鳴らされ、見るとチャリに跨りバットを手にしたギャング団が10人以上集まっていたこともある。犬を連れて外に出ると、ヤンチャな男の子が犬のリードをバトンにして、一人一周でマンションの周りを走りまわる。それが終わると、ヤンチャ組は鬼ごっこや野球に興じ、リードはおとなしい組の男の子や女の子に渡される。妻と一緒に犬の散歩につきあい、親に言えない打ち明け話をしていく女の子もいた。
一ヵ月が経ち、初夏の日差しが子どもたちの肌を焼き始めると、もうヤンチャ組の頭は犬のことを忘れていた。彼らは家の前に集い、人数を確認すると、犬のリードも取らずに野球のできるグランドに駆けていった。おとなしめの子たちも、同級生の遊びに加われるようになって少しずつ犬から離れていった。
家の前に残された僕と妻と犬の姿に、どこか哀愁を誘うところがあったのだろうか。何人かの母親がそこに顔を出してくれることがあった。彼らは、家で鬱屈していた子どもたちが外出するようになったことを喜んでくれていた。そして妻とともに夕方の長い散歩に出かけていく。母親たちの打ち明け話のリズムにも、ワンちゃんはずっと歩調を合わせていたそうな。