朝、パソコンを立ち上げて飛び込んできたほっしゃん。元妻と再婚のニュース。なんだか無性にうれしくなって、妻にメールで知らせてしまう。「マジで?」と部屋に入ってきた彼女も嬉しそう。一面識もない夫婦に心配されて、彼も大きなお世話だとは思うけど、うちらの思い入れはずっと勝手に強かった。今でも夜中にYoutubeに「ほっしゃん。」と入れて二人で『すべらない話』を見ることがあるし、昔友達に焼いてもらったDVDを引っ張り出してくることもある。再婚については昨日の『すべらない話』で本人が披露したものらしく、ゴールデンタイムに移行してから見なくなっていたうちらはニュースで知ったんだけど、2004年の年の瀬の深夜に、たまたまつけたテレビでやっていたこの番組の面白さは本当に衝撃的だった。ダウンタウンによってもたらされた90年代の笑いの革命は、功罪ともにあって、音楽番組に出てきたミュージシャンでさえ何か変わったことを言わなければならないような圧力がテレビ界のコミュニケーション全体に及んでいるような息苦しさがあり、そんな中で、場の空気へのノリやハメ外し、ルーティン化したツッコミ等の要素を排除したプラットフォームを用意し、現代落語とも言える話芸を再構築するというコンセプトは斬新だったし、「誰が聞いても、何度聞いても面白い」というキャッチコピーの中に表明されていた、笑いの本質を結晶化すれば、反復や時の経過に耐えるものになるはずだという革命続行の意志は、十年前の革命の洗礼を受けていた世代には何よりもうれしかった。その場で費消されて、次の日になったら何も残っていないようなものは本当のお笑いではないんだというラディカリズム。そして名前も顔も知らない若手による実際の話芸。
最初にインパクトを受けたのは『熱帯魚』の宮川大輔や、凄味のある抑揚のキレで圧倒する千原ジュニアの話で、「なんだ、コイツラ」、「世の中にはまだこんなに面白い芸人がいるのか」という新鮮な驚き。彼らの年齢が僕らと同じ三十くらい、というのもよかった。長い下積みを経て実力でのし上がろうとしていた彼らに、28才でようやく社会人になっていた自分の境遇を重ねて共感した。彼らが強烈なインパクトを与えてくれた一方で、繰り返し聞くごとに徐々に感心するようになったのがほっしゃん。の話だった。彼の話は本当に「きれい」だった。研ぎ澄まされて美しいのでもなく、畳み掛けるように凄いのでもなく、「きれい」。芸人風情がまとっている自己顕示や破天荒、力みがあまり感じられない、初めて見るタイプの芸人だった。彼の話の中心には、まさに「誰が聞いても、何度聞いても面白い」笑いの種が一個だけ埋まっていて、全体の話は、その種を包む土のようにやさしく被せられている。話の順序立てや、焦点のずらし方なんかはもちろんプロの技なのだけど、彼の場合、編集の技術が前面に出てくるようなことはほとんどない。種が上手く芽を出せるように、必要なだけ水をやり、収穫のときが来たら静かにさっと土をのけて、結んだ実に語らせるという昔ながらの百姓のような節度があった。双子に対するビンタ、といえば誰もが想像する結末をきれいに裏切る『軟式テニス部での出来事』、習慣の違いへの不安をきれいに裏返す『ジャングルの露天風呂』、二分間の話の中で猛獣への恐怖と慢心を三人の登場人物の間で何重にも反射させる『猛獣の世話』。これらは、面白さの秘密に考えを巡らせているだけでも時間をつぶせるほどのお気に入りで、そんなきっかけでそれからしばらくほっしゃん。にハマった。
『軟式テニス部での出来事』
『ジャングルの露天風呂』
『猛獣の世話』
当時Gyaoというインターネットテレビがあり(今もあるみたい)、ほっしゃん。が3時間一人で喋くる『ほっしゃん。の180分』という番組があった。まだお金にならない研究をしていた頃、その放送をBGM代わりにひたすらプログラミングをするという時期があり、その中の一回、彼が和歌山の山奥のおばあちゃん家に帰省した話をした回があったんだけど、それがまた可笑しくてやさしくて、彼の芸人としての冷めた目線と、孫としての愛情が調和した本当に素晴らしい放送だった。もう一度見たいけど、もうどうやっても見れないんだろうなと思う。DVD化もされていないだろうし。結婚報告もその番組で知り、彼の子どもが生まれたのは、僕らの息子が生まれた一ヶ月前。話が長くなってしまったが、そんな因縁で、彼が噂の女優さんとの浮気が原因で離婚したと聞いたときは、「あ〜あ」と余計な心配をしていたのだった。
同年代の芸人がこういう元の鞘への収まり方をして、それは彼にとっても子どもや奥さんにとっても多分喜ばしいことなのだろうけど、こうして十年前を振り返ると、たった十年でこの世代の風景がたいそう様変わりしていることに気づく。日はすでに正午を周り、人や物の影は前よりも長く伸びている。もう二度と、『すべらない話』の初回のような、同世代の飛ぶ鳥を落とす興奮のようなものは訪れないのかもしれない。今日はちょうどテレビで『スラムドッグ$ミリオネア』を見たのだった。窮地からの脱出、のし上がりの夢。妻がチケットをプレゼントしてくれた、2009年の僕にぴったりの映画だった(騒乱のシーンの大音響で、妻のお腹にいた息子は暴れていた)。2015年に見ると、感動の焦点はもう子ども達の生き様に移っている。そして彼らの夢の危うさを憂う分別も。これから僕らは、この分別を子ども達に伝えたいと願うのだろうか。そして、それは思うように伝わるだろうか。人生は、子どもたちに対して、決して先取りを許さないことで、彼らの尊厳を守るような気がする。僕たちに対してそうだったように。