カミュの『ペスト』が読まれているという。僕は知らなかったのだが、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』もまた疫病の流行する世界を舞台とした作品として読み返されているという。背景には当然、ほとんどの人間にとって once in a lifetime のパンデミックがある。日々のニュースが報じる感染者、失業、GDPの数字はそのどれもが未曽有のものではあるけれど、これらの不吉な数字の先行きが一つに重なった今後の世界の全体を見通すことは一般人には難しい。そこで全体図の描写は偉大な知性に任せて、自分たちはそれを覗き見ようというのがこういうときの読者心理ではないかと思う。
自分もまさにそういう動機で本棚から『ペスト』をとりだして読み始めた。先行きに対するまじめな不安や、道しるべを求める真摯な気持ちがなかったとは言わない。けれどもそれを上回っていたのは、自分はまだ直接影響を受けていないという物見高さであり、文学という括りに免罪符を得た、怖い物見たさの混じった野次馬根性であった。
きっとそういったことが罰せられたのだと思う。寝室の読書灯の下に、次の文章が現れたときにページを繰る手が止まった。

結局のところ、この病疫が六ヵ月以上は続かないというなんの理由もないし、ひょっとすると一年、あるいはもっとかもしれないという考えを、彼らにいだかせるのである。そうなったとき、彼らの勇気、意志、そして忍耐の崩壊は実に急激で、もう永久にその穴底からはい上がれないだろうと感じられるほどであった。

ショックだった。
今この一文から何かを感じたのではなかった。初めてこの本を読んだときの、この一文から受けたショックを思い出したのである。
「たったの六ヵ月!?」というのが、当時大学一回生だった自分のショックの内容だった。永遠の闇の中を彷徨っていると思っている人間が文学を手に取る理由は一つに決まっている。自己の絶望への完全な同調か、あわよくば救済への鍵を提供してくれること。『異邦人』には絶望は描かれなかったが、恐ろしいほど乾燥した諦念と不毛があった。自分は勝手に『異邦人』の続編として『ペスト』を読み始めていた。
しかるに、たった六ヵ月の苦悩を扱った作品を文学と認めることは到底できなかった。六ヵ月や一年の災難ならむしろ自分も右往左往してみたい、たとえ何年先でも終わりの見えている災難に係っている人間が心底羨ましい、と思った。カミュは明らかに自分のための作家ではないと結論付けて心を落ち着けようとしたけれど、この本に哀れなほど期待していた自分への憐憫の感情は消えなかった。自分よりも苦しんでいない人間は認めないという観念を抱いているらしい自分の心根が情けなく、なんでこんなことになったのだろうと、本当に本当に悲しくなった。
そのときの、涙も出てこない一人ぼっちの悲しみが、冷凍保存されていたように蘇ってきてショックを受けたのである。