まるい頭の男の子の夢を見た。
今日は土曜日だけど、息子は定期的な眼科への通院日だ。朝大人が起きたあと、中々起き上がれない様子で布団の中で突っ伏していて、どうしたんだろう、と妻が近くに寄っていくと、両手を広げ甘えるような素振りを見せていた。病院へ行くのにちょっと疲れたのかなと思い、ハグをして頭をよしよししていたら「どうしよう」。「今日はステップワゴンが来る日だ~」。
そんな朝の出来事を僕は見ていなくて、午後に病院から帰った妻からのメールで教えてもらった。そしてそのメールで知ることになったのだが、じっさい彼の中に、自分の眼について複雑な思いが出てきたことを示す出来事があったらしい。もう6年も通っていて毎回「順調です」とだけ言われて帰されているけど、一体いつまで通わなければいけないんだろう、などと幼稚園の頃は考えなかったし、そんな余裕はなかった。自分を受け入れること、病院に通うことで精一杯で、だから親もそういう疑問は持たないようにしてきた。そうして自分の見た目も気になり始める高学年になった。同級生にはメガネの子も増えてきた。けれども、同級生はいつもメガネをかけているわけではないのに、自分は寝るとき以外は決してメガネを外してはいけないと言われている。それは自分にとってのメガネが「治療」だからだというのだが、その治療を続けていって、治ったと言えるときは来るのだろうか。「順調」と言われるまま自分はどこへ向かっているのだろう…と、そんな疑問が生まれても不思議はない年齢になった。
診察前に、裸眼の視力を知りたいと妻に訴えたので、妻がドクターに聞いてみると、ドクターは管轄外とのことで次回以降に測ることになった。それには納得したものの、診察中も、当のドクターに聞こえるか聞こえないかの声で「メガネ外れるのかな…ブツブツ…治るのかな…ブツブツ」。ドクターはいつもの通り明確な質問でない限りは、とスルーしている。
診察が終わってからも同じことをずっとつぶやいていたので、「じゃあ次回までに聞きたいこと、まとめておく?」と言っていたのだけど、息子の様子から何となく次回ではない気がして、受付にお願いし、再度診察室へ。メガネが将来的に外れるのか?という点について妻がドクターに質問した。
「メガネが外れるかどうかは完全に個人差、君の眼次第なんだ。経験的にはこれだけの視力でメガネが外れたことはないので、難しいかもしれない。でも、個人差だから、いつどうなるとかってのは言えないんだ。17,18才くらいになったら視力が安定してくる。その時点で君の視力がどうかってことはわからないんだ」
メガネが外れないかもしれない、むしろ外れない可能性が高い、というニュアンスにちょっとショックを受けている感じがした。
病院を出て通りを歩きながら、息子が慕う従兄のK君の視力は0.1を切ってきていること、その母親のMちゃんも0.1に全然達しなくて、みんな何らかの問題を抱えて付き合ってるんだ、ってことを思い出してもらった。Sは、眼科医のHちゃんから良いお医者さんを紹介してもらって、それにこの前も目のためには外遊びが良いって話を聞いていて良かったね、なんてことも話した。そうしたら「(友達の)Hはあんまり外遊びしてないわ」と憎まれ口。そのうちに、お疲れさまのランチを食べているいつものパン屋さんに着いた。
年少さんの終わりから、ずっと、きちんとメガネをかけ続けてきて偉かったね。ちゃんと治療してくることができたね。Sは複視の状態でしょ?メガネをかけてないと、眼からくる情報と脳の判断が一致しないから、脳が混乱して片方の目をあまり使わなくなるらしいんだ。片目で見るよりは両目で見たほうが視力が出るから、両目のほうがいいじゃない?だからメガネをちゃんとかけることが重要だったし、今も重要なんだ。メガネがない時代に生まれていても、それはそれで何とかなったのかもしれないけど、今の時代に生まれたから治療ができる。メガネに感謝して治療を続けていこう。と、ちょっと迷ったけどそんな話ができた。
「仲良く帰ってこれたよ。彼の表情から、まいっか、って前向きになれた感じも伝わって来た。」
「まいっか」。僕が25年前に妻から教えてもらった魔法の言葉。僕の買いたての革ジャンに誤って爪を立ておいての「まいっか」。赤ちゃんだった息子がミルクを床にぶちまけても「まいっか」。彼がおもちゃを壊してしまった時なんかもずっと言っていた。「まいっかだよ、まいっか」
こんなことがあったから、納車のことはちょっと書き切れない。ともかく3人家族の家に7人乗りの車がやって来た。夜になって駐車場へ降りて最初のドライブに行こうとなったとき、「あっ」と言って息子と妻が家に帰り、モグさん、バナさん、モグワンの3人の人形を連れて戻ってきた。6人それぞれにシートベルトを締めて、早速3列目までを活用しながら、みなとみらいへGO!
長かった一日。息子は、ランドマークタワーで食べたお好み焼きのことを日記に書いていたと、後に先生から聞いた。