「ちょっとナビの説明書とりに行ってくる」
昨日の夜からこれで二回目。昨日は初ドライブのあと夜遅く家に着くや否や自室の窓へ駆けていき、駐車場に置かれた新車をしばらく眺め、それからそんな言い訳を思いついて家を出ていった。
これだけクルマ選びを手伝ってくれたんだし、名義は僕のものだけど家族の共有物として大切にしたいから、ナビの操作だけは自由にしてもらおうと言ってあった。けれども、妻に付き添われて出ていった結果がそれで終わらないことも分かっていた。ドアを開けてルームライトが灯った瞬間に当初の目的は忘れられ、エンジンを掛けろと言い出すだろう。助手席に座ってナビのメニューを一通りピコピコやって、それから二列目、三列目に移動し、ディーラーの人に教えてもらった三列目シートの格納を復習する。あげくの果ては車外に出て、母ちゃんに全てのライトの点灯を懇願する。
ジャングルジムを抜けるように細い体をひねりながら車の内外を行き来している様子を思い浮かべながら、初めて花火を見に行った時のことを思い出していた。前の方に陣取って最初の一発が上がるのを待っていた観客を見舞った薄暮を彩る閃光、それに続く轟音。大人でも怯むような音量に襲われ明らかに狼狽したように見えた息子は、しばし耐えた後に確かこう言った。
「ちょっと遠くからも見てみたい」
怖いものを怖いと言うことを躊躇させる、彼の中に芽生えつつあった三才なりの意地がそういう言い訳を考えさせたのだと当時は考えていた。けれども今は他の理由がしっくりくるように思われる。確かに恐怖を口にするのをためらう気持ちはあっただろう。だけどそれは恥ずかしいからだけではなくて、花火の音の恐怖を「初めての恐怖として感じていない大人との間に寂しさを感じたからではないか。僕らもワーだのキャーだの言いながら恐怖を表現してはいた。けれどもそれは花火の爆発音に「初めて」ふれた者の恐怖ではなかった。この花火も、遠くから見ることによってひょっとしたら、親にとっても初めての経験になるかもしれない。そうしたらようやくこの日の体験が三人にとって等しいものになる。そのように考える慮りが、ただ一人の年少者として家族の中で生きてきた彼の中にあの頃から宿っていたのではないか。
今日は昼頃から相模湖に出かけるつもりだ。しばらくは、どこへ行くのも、この車では初めてになることが嬉しい。