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この日は羽田空港への灼熱地獄のツーリングから帰ってカキ氷を食ったりして涼んでから、日暮れ前に隣町の花火大会に出かけた。隣町といっても10kmくらい離れているのだけど、自分の町の駅に着いたときから凄い人出で電車はほぼ満員だった。見渡すと思ったより浴衣を着た人が多い。そして浴衣を着て繰り出してくるような子たちはみな自分たちより遥か年下になっていることに気づく。彼ら・彼女らの不思議な純度を湛えた虚ろな目を見ていると、こんな人ごみの中にいても彼らの目には自分たち以外の人間の姿が入っていないし、それどころか彼らは今日のこのベタついた空気や汗の匂いを、未来の自分が(まるで自分のことでないかのように)遠く思い起こす日が来るということを100%忘れていられている…。彼らの身勝手な美しさに自分たちがお客さんになったような寂しさを感じる。
自分たちも含めて微妙に気を張りながらに会場に向かって歩いていた人の列も、ひらけた河原に出て周りの顔が闇の中に沈んでくるようになると、次第に緊張が解けてきて、石を除けたりシートを引いたりして思い思いの陣地を確保して、暗がりの中で最初の一発が打ちあがる頃には、河原や川沿いの道はもうすっかりリラックスした空気に覆われている。色の多い花火が大きく上がったり、こっちの予想に反していつまでも終わらない連続花火があったりすると、「わー」とか「おー」とかの声があちこちで上がる。拍手も、いつもこんなタイミングで聞けたらどんなに素敵で暖かい気持ちになれるだろうというほど、サラサラと、風のように鳴っている。それが本当に自然で、またそれが駅前ではあんなに無表情だった彼らから発しているのだろうと考えると、この国で花火大会が未だに人気がある理由が分かるような気がしてくる。東京湾とか横浜港とかの全国級の名物になっている大花火大会とは違って、相模三川の合流地点で催されるこの花火大会には人が集まるとは行っても隣町かそのまた隣町からくらい。そんな地域性もこのくすぐったいような情緒性の回帰に貢献しているのだろうか。でもどちらにしてもみんな二時間後には自分の家に帰っていくのだ。この束の間の交歓が、今やこれだけの大量な火薬の力を借りてやっと残光の中に炙り出るくるような微かな残滓でしかないとしたら…(そもそもこう回顧的に語る僕自身、地域の土から根を生やしたような生暖かい共同性のエートスを体験したことがあったのだろうか。戦争やバブル、失われた10年なんかと同じで、国民共通の記憶としていつのまにか刷り込まれているだけなのではないのか。あった。そもそも僕が育ったのは風土性のかけらもないような、同所得、同年代の父母子が集まってみな同じ大きさの部屋に入って暮らしていた郊外の町だったが、あの人工的な駅前祭りにも確かにそれを感じていたことを僕ははっきりと思い出すことができる。)
友達は鮎の塩焼きを食べることを勧めてくれたけど、結局探し出せずに串焼きや焼きそばのセットを食べたり、カメラを構えて手ぶれと戦ったりしながら時間はあっという間に過ぎていった。人ごみを避けるために終わる直前を見計らって帰路に着いたのだけど、花火はその後も案外長く続いていたようだった。しばらくは視覚がおかしくなって町の風景もちかちかとしていた。乗り換えの駅のホームに立ち止まった人々がビルの向こうに無音であがる花火を眺めていたりした。