太っていてタバコ嫌いの車好きよりは、痩せていてタバコ好きの車嫌いのほうがよほどマシな人間だろうというひどい偏見を僕は随分前からもっているのだけど、気がつくといつのまにか当の自分が三番目の分類(車好き)に近づいてしまっていた。この3つの類型は自分の中では欲望の公然の放任、合理性の強要、拡張したナルシシズムの典型を表している。つまり欲望、(啓蒙的)理性、鏡像という自我の諸形式(の信奉・過多)に対応していて、自分としてはなかなか分かりやすいアレゴリーかなと思っている。こう公言してしまうことで、自分のコンプレックスの在り処(僕が無意識的に何を我慢しながら生きてきたか…)も自然に限定されてきてしまうのだけど。
車好きと言ってさまざまだろうからもう少し明確にすると、ここで注目するのは車体そのものへの過度の執着を示すタイプだ。「車で色々なところへ行くのが好き」というのはドライブ好きと呼ぶべきで、(これも車好きと無関係ではないだろうけど、)ここではあくまで車種や外装、内装、エンジンスペック等を過剰に意識しつつそこに自己のアイデンティティーを賭けているタイプ、という意味で使うことにする。
車好きは各社のラインアップについて驚くほどの知識をもっているけど、これは彼らの習慣を考えれば特に見上げるようなことでもない。日がな一日カタログと向き合いながらアクセサリーの検討やライバル車種とのスペック比較をしていれば時間はあっという間に過ぎていくし、彼らにとってはそうやって余暇を過ごすことは苦しくもなんともない暇つぶしである。そうしているうちにごく自然に車種の知識は吸収していける。フロントビュー・リアビューの精査、カラーバリエーションの検討、コストパフォーマンスの計算と、車の検討にはやることがいくらでもある。彼らはその余興にサルのように飽きることがない。
これは比較検討とは言っても、期待値の最大化を目的として組合せ、外挿・内挿等の知的作業が必要とされる投資系予想などとは違い、車検討ではイメージと戯れること自体が一つの目的となっているからだ。価格やエンジン出力は換算の必要のない数値としてはっきりと示されており、これを読むには大学偏差値表や企業年収ランキングを読み取れる程度の知性があれば事足りる。むしろここで動員されるのは、カタログデータを元にランク付けされた個々の車に乗ることによって、自分はどのように映るだろうという「想像」にかかわる領野であり、ここで喚起されるのは現実的な報酬というよりは、優越感、羨望、嫉妬、後悔といった掻痒感に満ちた情動であるからだ。「車に乗ると人格が変わる」とはよく言われることだけど、自身の優劣意識を付託・投影された鉄の層で自己を囲い込みそこから世界を見ようとするのだから当然のことだ。しかし丹念に練られた自己イメージは決して手に入れることはできないだろう。車に乗っている自分の姿は決して自分で見ることはできないのだから、それはあくまで鏡像なのだ。
僕はなぜ当面は買う見込みもないメルセデス・ベンツシトロエンのカタログに夢中になっているのだろう。そこにあまり明るい原因を見つけだすことはできない。それがある種の挫折と救済にかかわる自己イメージに深く結びついていることはわかる。思い出そうとはするけどある記憶の淵で想起が行詰る。決して甦ろうとしない思い。そこを超えようとするとき胃のあたりに鈍い痛みが走る。絶対に超えられない感覚がある。僕が手にするのは細切れにされた記憶の破片だけだ。
(今でもバイクにまたがるとコンクリートで切り出された灰色の海に吸い込まれていく。まだ空き地だった海沿いの埋立地、冷房の効いた車内、J-WAVEから流れていたエリック・クラプトン…。記憶の破片はどれもが穏やかな印象を与えている。)