あくまで冷静に考えればこれは本当にギリギリの決断だったのだろうと思う。これだけ種牡馬価値のある馬が5才も現役を続けるというのは欧米のみならず日本のチャンピオンホースの慣例から言ってもやっぱり無法な冒険というしかないし、かといって虚像・願望入り混じって膨れ上がったディープインパクトのイコンに更に説得力のある次の展開を期待するならば、それはもう来年の凱旋門賞でリベンジするしかないわけで、国際G1勝ちをaccoladeに加えることも、有馬でハーツクライに雪辱を果たすことも、とうてい求心力を伴った物語とは言えないだろう。凱旋門賞前は100億とも報じられた種牡馬価値は、一部は明確にあの結果によって目減りして51億という値段に収まった。それでも内国産馬としては過去最高だったキングカメハメハの2.5倍。もしこの秋ハーツクライに二度三度と連敗するようなことがあれば更に数十億円規模での暴落も避けられなかったわけで、そのリスクをヘッジしつつきっちりこの時期に社台に先物売りしてみせたあたり、馬主としての心憎いまでの妥協点だったと思う。
会見で池江調教師が口にした失望には、海外渡航前の宝塚出走という解釈の難しい決定が下された時も含めてこれまで私情を封印してながらずっと前を向こうとしてきた人だけに、外野ながら心底同情できるものがあった。メジロマックイーントゥザヴィクトリーステイゴールドと、これまでも良質の素材を息長く活躍させる技術、力を充填させながら好機を待ちいざという時を見極めて生涯最高の走りにもっていく見識の高さにはとても良い印象をもっていたけど、ディープインパクトに施してきたこの2年間の調教とコンディショニングのレベルの高さは掛け値なしに彼を超一流の調教師の列に加えるものだったと思う。三冠、無敗、圧勝という義務を負わされてレースでの試行錯誤さえ許されないプレッシャーの中で、結果を出しながらディープインパクトを成長させてきたこの過程は、いかほどの充実感だったのだろう。武豊もまた「残念」と言い残したまま、この10日間無言で必死に何かを暖めようとしているように見えた。現時点までの注がれてきた調教の水準や血統背景を考慮するとディープがもう一段強くなることは考えにくいにもかかわらず、また古馬にとっての凱旋門賞の斤量の厳しさを嫌というほど味わった後にもかかわらずやっぱり彼は翌年のリベンジを期していたのだった。このことから察すると、武豊もこれまで10年間磨いてきた外差しの技を活かせなかった自分の騎乗に人間的な悔いを感じていたのだろうか。調教師も騎手もスタッフも、これでようやく国内的な圧力から解放されて来年の1レースに向けた自分たちの戦いができるのだという幻想を必死に掴もうとしていたのだと思う。経済的な合理性に傾く種牡馬ビジネスの話よりもこっちのヒューマンドラマのほうに肩入れしてしまうのが競馬ファンにとっては自然な心情というものだろう。
今週からまたG1が始まるけど、なんだかそれがとても小さいことのように感じられるこの空虚さ。それだけ立ち去った波は大きかった。でもこの瞬間にも、次の大きな夢を見ようとする人間の強さが芽吹こうとしているのだと信じたい。