Deauville、Auteuil(周りを歩いただけ)、Epsom Downs、Hastings、Hyderabad。競馬場という場所は初めて訪れた人間には結構愛想が良いもので、これまで物見遊山に足を伸ばしてきた各地の競馬場のことを思い出してみると、そこには馬券で祝福された幸福な記憶がわりにしっかりと結びついているけど、それぞれの場所をどんな歓声や言葉が満たしていたかということに関しては不思議なくらい記憶がない。たまたまそれほど大きなレースのない開催だったというのもあるのかもしれないけど、DeauvilleのPrix de Mornyは2才戦とはいえ一応G1だったのだし、東京競馬場京都競馬場のイメージがそこで行われたレースの格とは関係なく、ざわめきや歓声を伴った分厚い表象として甦ってくるのと比べると不思議な対照だと思う。初めて友達と競馬場に足を踏み入れたのは1991年の秋の天皇賞で、ホワイトストーンとプレクラスニーを置き去りにしたメジロマックイーンが目の前を楽々と走り抜けていく姿と、その後の審議・降着という大逆転の結末にしばらく興奮が収まらず、どっちにしても馬券は外れているのにずっとその友達と文句を言ったり悪態をついたりしながら帰り道を歩いていた(彼はホワイトストーン気狂いだった。濡れると黒く輝く灰色の毛並みと赤いメンコ、母馬の名ワイングラスの響き合いが美しかった)。でもその時一番僕たちを驚かせていたのはおそらくそれまでに聞いたこともなかったような地を這う地響きの音だったのだと思う。勿論その時からその音については自分の中で明確な意識の対象となって、一年後、次の天皇賞に別の友達を誘うときには自信ありげな誘い文句として使われていた。「競馬場に行ったら凄い音が聞ける」。
当時まっさきに思いついた解釈は、単純に人間の数と金額の多さというものだった。15万人の人間が賭した金の宛先はタロットみたいにばら撒かれた馬群の帰趨にゆだねられる。金を馬券に換えた群衆は恐ろしい受動性を強いられたまま結果を待つしかない。その間に許されているのは声を発することだけだ。その瞬間に向かって高まっていく予期と現実の電位差。今だったら確率波の収束だとか情報エントロピーだとか、もっともらしいことも言えそうだけど、あの音の正体についての認識が深まったわけでは決してないと思う。それどころか最近は観戦はもっぱらグリーンチャンネルだし、たまに訪れる競馬場にもあの魅惑的な野蛮さが薄れてきたようで、そんなことに想いを馳せる時間もめっきり少なくなった。
今年の凱旋門賞を映し出すテレビから、最近意識しなくなっていたあの声が聞こえてきたような気がして自分はますます分からなくなった。隊列がフォルスストレートに差しかかったあたりでそれは突発的に生じ、直線に向く頃には主役を迎えるに十分な大きさになっていた。「ワー」とか「アー」とか、間投詞で表すと間抜けなこんな歓声は東アジア人にしか発することはできないから、あれはほとんど当日集まった数千人の日本人のものだったんだろう。ディープインパクト武豊もあれだけ溶け込んでいたのに、あの歓声だけはHippodrome(大陸では競馬場を今もこう呼ぶ。古代ローマ馬車競技場のこと)にはあまりにも場違いだった。電車男みたいなオタクを含んだ日本人の振舞いがクレージー・ジャパニーズとの批判を呼んだという記事が出ていたりしたけど、僕を見舞ったのはそういう伝統的な作法への不明とは違う意味での寂しさだった。島国根性といっても僕はそれが実際にどんな根性のことなのかほとんど理解していない。ただ現実への手触りを阻害された心性に深く関係したものであるとは思う。そういう傾向とそこから発奮しようとしてなされる限定された行動の種類はかなりの割合の人間に共通していて、ある者は影を追うようにあてのない自分探しの旅に出るし、別の人間はひたすら「現場」に密着することで外部から充実感を調達しようとしたりする(フランスの厩舎に押しかけた日本の報道陣の数を見よ。クレージー・ジャパニーズの記事を配信したのは他ならぬ彼らだった)。「現場」に身を置くことのできない人間たちは「外にある世界(日本語の『世界』に日本という国は含まれていないから)」を見せてくれる導きの神を待つ。それは今の時代ではスポーツの英雄であったり、ディープインパクトのような偶像(holly cow)であったり、田代まさしであったりする。それらすべての分派が、身内意識と同族嫌悪でべったりと癒着しつつ日本という小宇宙は成り立っている。
今日は本当にこんなことが書きたかったのかな…。