副業のほうが珍しく繁忙期に入っていて今日も10時まで会社。帰って昨日見た「ガキの使い」(カラオケで熱唱する浜ちゃんに野口五郎が憑依するやつ)をもう一度見ながらご飯を食べて、この時間まで本業の方のコーディング。本業のほうは自分にとって当面一番愛着のある事象を、数学的性質に留意しながらプログラムに実装してゴリゴリ追い詰めていくわけだからそりゃ充実感はある。会社で金融系システムと取っ組み合うのだって積極的興味はゼロにしても知識が身につけば作業がはかどる分悪い気はしない。でもこれまでも何人かの人にちょくちょく愚痴らせてもらったことだけど、自分にとってこの手の充実感というのは罪悪感と切り離せない。これはある意味で、「知」というものの「力」として蓄えられていく性質が、僕にとって無視できない重みをもつせいだろうと思う。プログラムは言うまでもなく自然力を制御して自然を支配ならしめる機械の亜種だけど、英単語を覚えたり専門書を読みながら何かについて学んだりといった作業も、神経回路を特定の目的に向かって配線していく過程だからいわば立派な機械化といえるのだし。よく言われる、知のコミュニケーションの触媒としての側面は僕にはよく分からない。知に依存した会話は制度的にあらかじめ前提されている場合が多いし、そうでなくてもお互いに知ったかぶりやひけらかしの緊張が混じることが多々あるように感じる。そうなるくらいならたとえ好きな分野の話であってもそれほどしたいとは思わない。
啓蒙期に語られた自律した理性という思想は、第一義的には王侯貴族から知識を奪還するというブルジョワ階級闘争的な動機に支えられていたもののであったかもしれないけど、人類全体として神秘の領域を踏破していくという強力な名目もあったと思う。少なくとも20世紀後半の宇宙開発の時代まではその名目は強力なヴェールの役割を果たしてきたし、未だに不可侵な宗旨であることに変わりはない。スペースシャトルが事故に見舞われても危機管理や失われた財源への批判が叫ばれるばかりで人間が宇宙へ飛び出さなければいけない使命自体が疑われることはほとんどなかった(Colombia, 2003)。とは言っても、未踏の地は実際には地球にはほとんど残っていないし、宇宙の辺涯も光学的に見通せるようになって、人類全体が克服すべき未知なるものの圏域がとても分かり辛くなってきているのは確かだ。力としての知による支配が、ヴェールを失ってあからさまに人に向かい始めるのは、Hawkingがブームになった90年が一つの境になっていたような気もする。よく言われる文系志向の傾向もその現われとは言えないだろうか。そうなると学問が不遇な出自を脱するための武器であった時代、それ以前に文字が支配者の統制の道具であった時代のことを僕らは笑えなくなる。受験教育がもたらす直接的な成果は、知による序列のコンプレックスと競争心を国民に植え付けるということしかなくなる。
自分が罪悪感を感じるのは、知で人を圧倒しようとする欲望が人一倍強いからなのかもしれないとも思う。明瞭な概念化とその論理的な展開という西洋的なscienceの手法にはフェテッシュな愛着があるけど、僕の眼はどうしてもその先に、人に平伏し平伏させる無残な光景を見てしまう。だから、こと罪悪感という見地から自分が一番フリーになれるのは無為の時間に沈んでいく時だ。知力を真綿で封じ込めながら、煙草を吸い好きな音楽を聴く。世界の大きさや魔力が髪を鷲掴みにして自分の頭を泥の中に漬込もうとするのに抗わず、ただひたすら神経の末端を開放する。そんな沈鬱な時間にでももし立ち上がってくる言葉があるとしたら、それが詩としか言えないような言葉であろうと、それもまた知の所産であったとしても、友達や親しい人と分け合うだけの価値があると自分は信じているのだけど。
Presence
Led Zeppelin / Achilles Last Stand