NHKでは2年ほど前にもポアンカレ予想の解決についての番組を放送していたが、昨日それとはまた別個の番組がハイビジョンでやっていたのでつい見てしまう。ポアンカレ予想の内容を、宇宙の形についての問いに置きかえて提示しているところや、証明後フィールズ賞を辞退して森に隠棲しキノコ狩りをしているとも言われるペレルマンを中心に数学の発展史を追う構成など、かぶるところは多々あるものの、忘れているところを思い出したりしながら思いのほか楽しむことができた。ポアンカレ予想の言明「単連結な三次元閉多様体は三次元球面に同相となるか」が、番組の中では「宇宙を一周してきたロープが手元に手繰り寄せることができたら、宇宙はまるいと言えるか」と、言い換えられていて、これは「三次元閉多様体」が「宇宙」に、「単連結」が「ロープが手元に手繰り寄せられること」に、「まるい」が「三次元球面(普通にわれわれが思い描く球面は二次元球面)」に対応しているのだと思われるが、こうして視聴者に受け入れられやすく、より想像力を刺激しやすい形に言い換えた結果、一般の視聴者にはこの問題が宇宙論という実証科学に関っているかのような印象を与えてしまうのではないか、とおせっかいながらも心配になった。「多様体」も「単連結」も、ましてや「三次元球面」などはあからさまに人間の脳が作り上げた想像上の概念であろう。僕は数学者ではないので断定的なことは言えないけど、応用数学的な分野を除けば、数学における問題解決の醍醐味は、あくまでこうした抽象的な概念の性質が、抽象的な操作をへて、抽象性の地平の中で明らかにされていくところにあるのではないのだろうか(番組は、数学に潜む常人の理解を超えた魔力については余すところなく伝えていた)。抽象的ということは、具体的事物に縛られないという意味で自由ということでもある。それは薄暗い洞窟を離れて、イデアの青空に見つめながら自由に瞑想する(プラトンの描く)哲学者の営みのように、現実から遊離し隔絶している(この意味で理想の哲学について思い描くプラトンは数学そのものについて語っているかのようである。ただし現実の哲学は、自由な発想を数学のように厳密な手法を用いて実現することはできない)。もちろん数学者が具体的な個物を思い描くことによって、問題についてのイメージを膨らまし、解決への手がかりにしていくことは日常茶飯事であろう。ただしこれは問題解決のための便宜であって、動機そのものではない。あそらくポアンカレ自身、この予想(conjecture)を構想するにあたって、「宇宙を一周したロープが…」などとは一度も考えなかったはずだ。一般の人に説明するための方便として、そのような譬えを用いたことがあったとしても。
いずれにしても2時間もの枠を使って、これほど骨太なネタをがっつりやってくれる数学番組も滅多にない訳で、大いに知的好奇心を刺激されて床に就いたのだった。
「あ、屁が出た」
「え…」
「大丈夫、たぶんくさくないから」
「臭っ!(急いで鼻をつまむ)」
「うそぉ〜、臭ないって」
「ホンマ?」
「(布団にもぐって確認)うん、大丈夫」
「オレ(妻が僕を呼ぶ呼び名)のホア〜ンカレ予想が来たと思って…(まだ鼻をつまんでいる)」
「だから大丈夫やって」
「そっか、ホア〜ンカレ不安やっただけか」
「うん…」
「ホア〜ンカレ予想、無事解決やな」
「もぉ…」