ポアンカレ予想―世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者
NHKのドキュメンタリー「数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘」(これ、NHKにしては凄くキャッチーなタイトルだけど、番組を見てみるとポアンカレ予想とキノコ狩りとの間には論理的な関連は全くないし、ペレルマンの数学的業績や資質とキノコ狩りとの間にもとるに足るつながりはない。行方をくらましたペレルマンに関して、ときおり森に入ってキノコ狩りをしているという噂が立っているというだけの話が語られるにすぎない。番組プロデューサーによるフィリップ・K・ディックへの私的オマージュだろうか)で興に乗ったついでに。サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』や本書のような、一般向けの数学解説書をPopular mathematicsと呼ぶそうだが、アメリカではこの手の本は、story tellingの才だけでなくて実際に理学系の学位等のバックグラウンドを持ち合わせたライターによって書かれる伝統があって、綿密な取材に基づいた人間臭いエピソードに加えて、素人にも問題の概略的イメージをもたせるだけの適度な専門性も兼ね備えるなど、読み応えのある秀作が多い。本書の場合、歴史上の個々の数学者がナチスに対して表明した政治的態度が逐一報告されるなど(著者の学位の取得元がヘブライ大学であることと関係があるのだろうか)の特徴はあるものの、個々の数学者の評伝は詳細で、トポロジーに関しても著者なりに執拗に理解しようと努めた跡が感じられる記述になっている。
ポアンカレの幼少期から書き起こされる数学者の列伝の中に登場するスメール、フリードマン、サーストン、ハミルトン等(前の3者はそれぞれ5次元以上のケースについての証明、4次元にケースについての証明、幾何化予想といったポアンカレ予想に関連する業績によってフィールズ賞を受賞している)の英雄譚を読んだ後でも、やはりペレルマンには別格的な大きさを感じざるを得ない。100年来の難問の最後のピースを嵌めた実績もさることながら、とりわけ一般読者の印象に残るのは、フィールズ賞受賞辞退を含む特異な行動を生んだ彼の倫理的姿勢に関する記述だろう。この事件がニュースで報じられて彼がフィールズ賞の歴史の中でも初の辞退者であると知ったときに、彼は凡百(?)の受賞者の列からあえて外れることによって自分の業績に相応しい脚光を望んだのだではないかなどと僕は初め邪推していたのだが、番組や本を読んでいるうちに印象が変わった。実のところ数学賞を辞退したのは彼にとってこれが初めてではなかったらしい。彼には数学者としてのキャリアの当初から、結果を発表できるような形で書き留めようとせず、同僚に伝えるだけに済ませるようなところがあったという。大々的な論文の公表など些細なことだ、と彼が考えていたかどうかは分からないが、少なくともその先に期待される栄誉を欲しがっているようには見えなかった。彼は初めからtenureも昇進も求めなかった。「『論文を出さずば去れ(publish or perish)』という空気の中で、ペレルマンはさわやかな例外だった」。ペレルマンによるポアンカレ予想を証明する3篇の論文が投稿された先は、権威ある数学のジャーナルではなくインターネット上の論文投稿サイト(arXiv)であったが、この一見人を食った発表法は彼にとっては「成果をスピーディーに配布させるために」最も合理的なものだった。彼は結果の正しさを確信していたので、通常数学者たちが論文を発表する前に行う「地方まわり(ロードショー)」と呼ばれる講演活動の労をとらず、同僚の数人に単刀直入なメールを送るだけで済ませた。そして質問者からのメールには正確な回答を迅速に返信した。色めき立つ数学界によって説明を求められ、アメリカへ招待されたとき、彼はもちろん喜んで引き受けたが、熱心で当を得た質問には的確に答える一方で、初歩的な質問や記者たちからの注目には明らかな嫌悪感を示した。彼の性格を何よりもよく映していたのが、当の論文の叙述の仕方だった。論文は査読者が呻吟するほど簡潔に、余分な箇所を省いて切り詰められ、大論文にありがちな自慢や満悦の要素は何一つ読み取れない。その代わり、自分に先立つ功績へのクレジットだけは非常に几帳面になされていた。論文の中には、自らが最終的に解決した「ポアンカレ予想」の文字は一つも使われていないという。自分の出した結果が、ただそれを理解しうる人間によってのみ享受され、それによって数学の体系に一つの成果としてに無私的に加わること、ここに彼の関心が集中していたのは明らかだった。査読者たちとの質疑応答を終え、彼らが論文をあらかた理解したことを悟ると、ペレルマンは再び音信不通の森へと帰っていく。
こうしたペレルマンの理想主義的とも言える態度を、著者は本文中で「ソ連的」と表現している。この「ソ連的」な振舞いが、本書の中で描かれるいかにもアメリカ的な変人スメールの振舞いと明確な対照を成しているのが面白い。ちょっと前に友人とロシア的な美徳とは何か、という話をしたことがあった。政治体制による影響を度外視するならば、僕が彼の倫理的態度から、信仰や愛の問題について何十ページにもわたって夢遊病者のように一徹に語るフョードル・ドストエフスキーの人物たちを想起したことも、あながち的外れとは言えないかもしれない。数学にはあらゆる学問に優って自由が漲っているがその自由は無制約の自由ではない。科学が被っている、現実という対象性に起因する制約から自由である反面、数学といえども、人間が事物や世界を了解する根源的なフォーマット(category)から自由になることはできない。数学は、所与の人間的なcategory(ものの数え方、近さ、接近、広がり、交換、配置、順序、方向、包含、因果等々)の妥当性が最も純然と検証される理想的な場であるが故に、名誉心や自己成就欲といった自明の事柄を超えた人間的な深奥が最も先鋭的に発露される場でもあるのだろう。