一度二度、ケージの中から吠えたりもしたけれど、本に書かれていた通りにすぐにケージの前から立ち去ると吠えるのをやめた。夕食時にもクンクンと鼻を鳴らしていたが、なるべく目を合わせないようにしていたら諦めて寝床のクッションに身を横たえてくれた。そうしてワンちゃんの方はいったん落ち着いたのだが、今度は人間の方が団欒のきっかけをなくして黙り込んでしまった。居心地悪い沈黙の中、テーブルの上で不自然に行き交う食器の音、互いの目線。犬の行動に対してマニュアル通りに対処しているだけなのに、一体この違和感は何なのだろうと考え、息子が赤ちゃんだった頃のやり方はこれとは全然違っていたと思い出した。「抱き癖」という言葉は当然僕らの頭の中にも入っていて、夫婦の間でも何度か議題に上った。生まれたての子どもに一生ついて回る宿痾を思わせるこの言葉に不安を感じつつ、赤ちゃんの泣き声が呼び起こす切迫感を受け流すのはとうていできそうにないと悩んでいた頃に、赤ちゃん教室の先生をやっていた年配の女性が母親たちに語りかけてくれたのだった。「抱き癖という言葉はありません。赤ちゃんが泣いたら思い切り抱きしめてあげてください」 。あの言葉で、惜しみなく赤ちゃんに接することへの勇気をどれだけもらったか。
そういう思い出が頭の中をめぐっていたから、夕食後にケージから出してみんなで過ごしていたとき、さっきからもう子ども返りをしてちょっと犬の鳴き声などを真似している息子に「オレが初めて家に来たときはどうだった?」と問われて、すぐにその日のことを思い出すことができた。確か青いバスタオルをかけて寝ていたと思う。朝起きるとすごい天気で、ベランダに出て空がきれいだなと思った。バアバとカローラに乗ってヤマダ電機で電気ポットを買ってから病院に迎えに行った。病院のガラス窓を挟まずにふれるのはそれが初めてで、僕はまだ赤ちゃんの泣き声を聞いたことがなかった。バスタオルにくるんだまま車に乗せ、家の近くで車から降ろし、ベッドの上に横たえた。運転している間も家に着いてからもずっと、いつ泣き出すんだろうと気が気じゃなかった。けれども赤ちゃんはずっと眠り続けていた。病院で会ってから五時間、六時間。赤ちゃんは一度も声を出すことも目を開けることもしなかった。心配になって母ちゃんと何度も和室を覗き込んだ。長い夏の日が傾き、和室に影が伸び、もういくらなんでも何もないのはおかしいと矢も盾もたまらなくなって何度目かに和室を覗いた時あることに気づいた。赤ちゃんは相変わらずすやすやと寝息を立てていたが、いつの間にか寝相を変え、僕たちの気配のする方に顔を向けていた(親として求められてるのだと初めて思った。母ちゃんと抱き合って泣いた)。最初の泣き声は、夜の闇が部屋を覆ってからきた。「オムツ?」、「ミルク?」と騒ぎ立て、あたふたと母ちゃんと走り回った。
部屋の大掃除をし、仔犬のスペースを作るためにおもちゃの断捨離をし、重大な決意でこの子を迎えたお前には言えないけれど、と心の中で独り言ちた。このワンちゃんのことは僕にとってTiny Beautiful Thingだ。「おいで!」と呼んで駆けてきてくれる仔犬の可愛さ、それを感じる気楽さで、君と過ごせた日は一日もなかった。