随分前の話になるけど、『人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデン』で千原ジュニアがやったすべらない話に感心したのでちょっと書いてみたい。まずこの話、構成自体がとても凝っていて、出だしは「がさつでデリカシーのない兄」が素人に対しても普段から遠慮ないツッコミを入れている、というエピソードを2つほど出して軽い笑いをとる、というところから始まる。これを聞くと、あ、これは「そんな兄が…」と、よりインパクトのある事件で畳み掛ける、お得意の展開かなと思いきや、「(私も)こないだ初めて素人の人に思いっきり突っ込んでしまって」と続く。くだんのお得意の展開自体がジュニアが作り出したものだけど、今や多くの出演者によって模倣されてしまっているスタイルにはいつまでもこだわらず、真似をされたら次の新しいスタイルを生み出していけばいい、というこの心意気は孤高のジャックナイフ芸人の面目躍如たるところだろう。
ただ僕がもっと感心したのは、クライマックスで垣間見せたジュニアの話術の巧みさのほうだ。見てない人もいるだろうから先に簡単にあらすじだけ書いておこう。豪放磊落な兄とは対照的に繊細優美、とのイメージを持たれているジュニアが思わず突っ込んでしまった事件というのは、「名古屋での仕事が終わってホテルに戻ろうとしていたところ、入り口の前に商談の成立を喜んでいたサラリーマン二人が立っていて、お辞儀をしながら手を取り合って握手をしているので、入り口が塞がれていた。ジュニアが近づいて通ろうとしたところ、なんと二人は手をつないだまま上に挙げてアーチの格好を作り出し、ジュニアは思わず下をくぐってしまった」というもの(こうして文字にしてしまうとやっぱりどうしようもないね。残念ながらYouTubeにもニコニコ動画にも見つからなかったので、見れなかった人はDVDでも見てください)。ここでのジュニアの語りを、台詞とト書きの形で書き下してみよう。

(隣席の芸人の手を握りながら)
「『ありがとうございました!これからもよろしくお願いしますね』みたいな、五、六十の二人がやってはるんですよ。けど僕は、入り口そこしかないですから、『向かってるよ俺』、『そこでやってたらちょっとジャマですよ』と思いながらも、僕は止まるわけには行きませんから」
(その場で歩くポーズをする)
「ほいで、(彼らは)こうやってますよね。」
(再び隣席の芸人の手を握る)
「ほいで、『止まりませんよ、僕は』と。で、わー、って行ったら」
(さらに歩く)
「その二人が、こうやったんですよ」
(みたび隣席の芸人の手を握りアーチを作る。)←ここが一つ目の笑い
「で、『俺止まらへんよ』って思ってるから一応くぐったけど」
(歩きながらくぐる、そしてくぐった後サラリーマンの方へ振り返って)
「『なんでやねん!』」←二つ目の笑い

この話を構成する人物は四人。サラリーマン二人と、普段の千原ジュニア(ここでは本名の千原浩史としておく)と、芸人千原ジュニア。サラリーマンは握手をし、アーチを作る、という動きをするだけの存在で、これは隣の芸人、黒田有の手を握ったジュニアの身振りだけで表現されている。千原浩史は、入り口に向かって歩き、アーチをくぐる、という動き(これはジュニアの歩くポーズで表現される)と、「止まるわけにはいかない」という心内語をもった存在で、この心内語の主体はトークの中では主に「俺」という代名詞で表されている。芸人千原ジュニアは、サラリーマンと千原浩史の動作と心の動きについて、その理由と必然性を語りadvocateする存在で、千原浩史との区別をつけるためにトーク内では「僕」と言い表されている。こう区別してはみたもの普通に聞いている分には、よどみなく高速でまくし立てられることもあって、サラリーマンと千原浩史との区別はともかくとして二人の千原の区別はその場ではなかなかつくものではない。したがって観客は主体が誰なのか混乱した状態のまま話の進行に巻き込まれていく形になる。身振りと手振り、心内語と語りを縦横無尽に使い分けながら進めていく話芸によって、聞く者の目線を目まぐるしく入れ替えていく話術はまさに見事というに尽きる。余談になるが、言語芸術における視線の変幻自在な移動に伴う幻惑の効果は、僕の好きな次のような歌の歌詞にも現れている。

緑のクーペが停まる 雲を映し
Sure love,my true love
昔より遊んでるみたい
みがいた窓をおろして 口笛吹く
Sure love,my true love
傷あとも知らないで

通りすがりの 着飾ったあの娘は クールに夜を歩く
悲しませるもの すがりつけるもの 胸にいくつかかかえ
俺達そんな見知らぬ彼女を 夢中にくどいている
彼女の胸の上 優しい光ともして眠りたい

さてそこからトークはクライマックスへ。ここでもう一仕掛け。絞めに使われている「なんでやねん!」というフレーズはもちろん、アーチを作ったサラリーマンへの疑念を抱いた千原浩史の言葉であるとともに、アーチをくぐった千原浩史に対して発せられる芸人千原ジュニアの言葉でもある。このフレーズによって、これまで「俺」と「僕」とに分かれていた千原浩史千原ジュニアが一体となる。と同時に、あらすじとして展開されてきた物語と、それを語ってきたトークとの区別が消滅する。お笑いにおけるツッコミの役割は、ただ単にボケに対して訂正・叱責することだけでなくて、ボケによって惑わされた観客の意識を正常に戻すことにもある。正常な立場に戻ることによってはじめて、これまで道からそれていたことを知ることができる。その修正がピタリと決まったとき、自分が準拠していたパラダイムがいかに頼りなく揺れていたかを知ることができ、そこに笑いが生まれる。そう考えると笑いとは、パラダイム間での揺れ・対立を高次元の空間に向かって昇華したものとも言えるだろう。このトークの中で僕らはツッコミを装った千原浩史に寄り添いながらサラリーマンに突っ込んだ。と同時に知らぬ間にアーチをくぐってしまっていた。それを千原ジュニアに指摘された時、千原の中にいた浩史とジュニア、行為者と語り部が別体であったことも知ることになった。ツッコミとしては最もベタなフレーズとして選ばれた「なんでやねん!」には、このようなツッコミの最良の意味が込められていたのである。
板尾を笑いの師匠として慕っていること、『しりとり竜王戦』で発揮された大喜利を得意とするスタイルなどから、千原ジュニアを発想系の芸人とする見方があるけど、僕には彼は逆に鍛錬の人というイメージのほうがピタリとくるところがある。念入りに設計された緻密な構成、キメの台詞の無駄のなさ、それを噛まずに鋭く言い切るカデンツァ(終止形)の凄み。これらはストイックな孤独な鍛錬によってこそ手にすることができるものなのではないだろうか。『人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデン』のオープニング、PRIDE風に演出された入場シーンで千原ジュニアはトリから二番目の紹介を受けた。今やそのたとえ自体が古くなってしまった感もあるけど、彼はあの時お笑い界のミルコ・クロコップとして登場したのである(となるとヒョードルはもう…)。