新しいパソコンが来たので先週はずっとシステムの移行作業。バージョンアップを避けていたミドルウェアインストーラーを失くしてしまったりしていて、やむなく最新バージョンをインストールしてみたり。案の定、機能変更の影響は大きくて、無味乾燥な横文字をググりまくりの日々。こういう作業に追われていると、本当に自分は技術的保守主義というか、根っからのエンジニアではないことを実感する。本当にすごいと思うよ、ネット上に有用な解決策のレポートを続々と寄せている人たちの貢献ぶりは。彼らの無償の書き込みによってもたらされた知識の集積がもし有料の著作物にしか載っていないとしたらもうほとんどやっていられない。言語とか学問とか、ある程度系統的な理解が求められる分野を一から学ぶという局面ではまだ紙媒体が優位なのだろうけど、それでもITの領域に限らず便利なだけの知識に金が払われる流れが止まりつつあるのは確実な気がする。気になったことを調べるためにとりあえずWikipediaに当たって概要をつかむってことはもうみんなやってるでしょう?誰もが物知りになりうる社会で金を取るためにはただの知識にプラスして何かを付け加えないといけなくなった。それは言い換えると知識だけではもう知的アイデンティティを保てなくなったということでもある。百科事典はもうかなり前から中流家庭の本棚の飾りにならないが、じゃあ代わって何が人々の誇りを支えているかといえば、それは多分物語、それも繰り返し語られる大きな物語ではなくて、疲れた魂にガス抜きの一時的な経路を与えてくる物語、それを彩る慰安のイメージなどではないのかな。あまり楽しそうな話ではないね。
そういえば2年ほど前までWebサーバーとして動いていたマシンを整理していたら、昔書いていた日記やら文章やらが出てきた。自分が書いてから時間がたったものって正視できなくて、今ここに不定期にアップしてるものもしばらくしたらほとんど読み返さない、というか読み返せないんだけどみんなどうなんだろう。今回も結局日記のタイトルの一覧だけ見たら赤面して耐えられなくなったので一応ftpだけして封印した。自分は若くて美しいヒロインが難病で死んでいくドラマとか、家族の団欒を引き裂いた戦争、みたいなシチュエーションが苦手、というかそういうプロット(=謀りごと)を憎悪すらしているのだが、心理的にはそれに近い感覚のような気がする。自分の人生に悲劇的な終末点を仮想してそこから過去を清算しようとする性向があるのだとしたら、それはナルシシズム以外の何物でもないし、そんな態度からは未熟だった昔の自分を認めてやるという気構えも出てきにくいのだろう。ノスタルジーが自分にとって敵であることは日記を書き始める前から自覚していたはずで、前の日記の冒頭にコクトーの一節を書き留めておいたのには、自己への戒めとしての意味が込められていたはずなのだけど。

僕はその反対に、書かないのは弱気からだと信じている。ランボーは、自己を疑い、後世の栄誉を全うする気持ちから書くのをやめたのだろうか?そう思わない。後になるほどいいものが書けるのだ。しかし、後にいいものが書けるのを待ちつつ作品を見せる勇気のない臆病な連中がこれを言い訳にしては困る。なぜなら、も少し深い意味で言うならば、人はもっといいものを書くこともなければ、もっと悪いものを書くことも絶対にないのだから。

(ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」に寄せられたコクトーの序文より)

読み返してみたらこれ以上書く気がなくなった(苦笑)。でもまた書くよ。仕事も忙しいけど、このところ精神も忙しいんだ。