securityの思想

9.11の直後によく語られたことではあるが、日本でこういう事件が頻発しているかに思える今、ここでもう一度確認しておきたい。
secureとはラテン語で、sec="without",ure="fear"と構成される。「不安無き」の意味である。その点で、和訳として当てられる日本語の「安全(全き安心)」にも、この語の潔癖症的性格を良く表現されている。社会から「不安」の種を一つ一つ摘んで排除し、完全な安心を追求すること。もともと不安の種は<外側>にあった。人間は社会の<外>に充満する闇への恐怖を押さえつけるため、都市を城壁で囲った。すると魔物は社会の<内側>に住むようになった。電燈がつき、自警団が組織され、監視の視線は社会を<内側>から隈なく照らし出すようになった。
もちろん、無辜の人間から社会の<内>から襲われるこの手の事件から、自分を守るための最低限の教訓を得ることはできる。しかし心の平安を得るために、社会の<内側>に監視の視線を張り巡らせ、敵を網にかけては一網打尽にしていこうというsecurityの思想には、本質的に健全さとは程遠い危険な兆候がひそんでいるのではないだろうか。視線は今や一巡し、人々は精神の<内>なる恐怖本能そのものに怯え始めるのではないか。
出所直後の元受刑囚が、職にありつけない絶望を不条理に暴発させ幼児の頭に包丁を突き刺したとき、世間に満ちていったのは、被害者の無念への共感を装いつつ、その実「才能もなく努力もしないどうしようもない負け組の徒」が、自らの業で招きよせた人生の破綻を嘲笑う声でしかなかったように思う。幼児は犯人の馬鹿げた犯行の犠牲になっただけでなく、反社会的分子の追放を喜ぶ世間の、願望充足のスケープゴートでもあったのである。
私たちは、たとえこのような悲報に接しても、所詮は一時の悼みの気持ちを沸かせる程度の共感能力しかもっていない。だとすれば、被害者の復讐心へと必要以上に心を重ねようとすることに対しても、一歩踏みとどまっておくべきではないだろうか。