資本主義=会社主義?

日本は資本主義社会だと言われ、誰もがそれに同意する。ではその資本主義とは一体何なのか?物書きの中には、世界の様々な恩恵/矛盾を「資本主義のおかげ/せい」にしている人もいる。極端な人になると「全部資本主義が悪いんだ!」と決めつけて怒っている人もいる。少なくともこの人たちにとっては資本主義と呼ばれるものが、現代に対して何か包括的に関わってくるものであることは確かだろう。
冷戦の頃に言われた、資本主義vs社会主義の構図からすると、計画経済制に対する市場経済制のことなのだろうか、とも思うが、じゃあなんで市場経済主義とか、経済的自由主義とは言わないのだろう?それに「○○は社会主義者だ」という言い方はあるが、「○○は資本主義者だ」とはあまり言わない。これにも何か理由があるのだろうか?
ちょっと脇道に逸れると、高校の時、つまらない先生たちの中では割合印象的だった先生がいた。その人の担当は現代社会だったのだが、授業の開始時に膨大な自作のプリントをばら撒いておいて、授業中は、家で息子に注意したらぶん殴られたとか、それで怒って「あんなに粗暴に育ったのはお前のせいだ」と奥さんに詰め寄ったらビンタで張り倒されたとか、ドイツ人は体臭はきついが腕力は日本人の比じゃないとか(その先生は柔道経験者)、麻布の後輩だった現高知県知事の橋本大二郎から一本取ったことがあるとか、そういう話で一コマをほぼ使いきり、「じゃ、試験範囲は配ったプリント150枚全部ね」と言い残して去っていく、今から考えてもむちゃくちゃな人だった。
その人が、アダム・スミスやらマルクスやらが出てくる経済史のところで、「プリントに『資本』って言葉が良く出てくるけど、この言葉は難しいから『会社』と置き換えて良いよ」と言っていた。当時はそんなもんかと思いながら、「資本」が出てくると素直に頭の中で「会社」に置換して読んでいた記憶がある。
「資本」を辞書で引くと、「固定資本(工場・機械)+流動資本(原材料・仕掛品・出荷前の製品)」の意味があるから、これを一括りにして「会社」と読んでしまうのも、今考えてもあながち外れてはいないと思う。
じゃあ「資本」が「会社」なら、「資本主義」とは「会社主義」なのだろうか?
実は、この「資本主義=会社主義」の定義を、「国家主義」という言葉との対比で考えてみた時、私は、自分が会社で感じている違和感の一部がすんなりと説明される(spell out)ような気がしたのである。「国家主義」は言うまでもなく、国家が個人と対立した時に、個人の権利・自由を国家のそれに従属させようとする考え方のこと。「他の国家と対立した時」ではなく「個人と対立した時に」というところがポイントである。どんな売国奴でも小さじ一杯分くらいの愛国心は持っているものだが、愛国心があるだけでは「国家主義」とは言わない。「国家主義」は、国家が全てに優先するという意味で「国家中心主義」と言い換えることもできる。ではこの線で「資本主義」を「会社中心主義」とまで言い換えてみたらどうか。会社が社員と対立した時に、社員の権利・自由を会社のそれに従属させようとするのが「資本主義」だとしたら?
会社で私が感じる違和感。それは例えば、(首相ですら街頭や国会では野次られるというのに)社長の演説時には野次・罵声の類は一切飛ばないということであり(言論の不自由?)、年に2度の全体集会で強制される決意のエール交換であり(軍隊式マスゲーム?)であり、社長の「大御心」が定期的に配信される社内メール(翼賛国営放送?)なのだが、こういうことから感じる窒息感は、「国家主義」のイメージがもたらす窒息感とまさに同類ではないか。確かに会社には、特高もいなければ刑務官もいない。しかし「会社主義」が「国家主義」に取って代わった社会だからこそ、退職者・フリーター・無職者は、いわば亡命者・移民・無国籍者の代理として蔑視されるのである。皆が馬鹿にする戦前の日本や北朝鮮は、実は今、「会社」という矮小化された形でそこら中に遍在していると言えるのではないか。
NHKに勤める友達によると、朝日の意図的とも言える誤報があった後、「朝日と戦争だぁ〜!」と気勢を上げていたNHK社員がいたらしい。戦争は原則的に国と国との間で戦われるものだ。この社員にとってNHKは、比喩的にであれ愛する祖国と同じ形象を持っているのであろう。日本では、涙を浮かべて君が代を熱唱する人間が疎んじられる反面、こういう社員は案外自然に許容されている。「資本主義」が「会社主義」なのだとしたら、こういう社会の現状も自然に説明できるような気がするのである。
追記:この定義を踏まえると、「資本主義者」という言葉は、わざわざそんな物々しい言い方をしなくても、「会社人間」と呼べば済む話だから、あまり普及しないのである。