社会科学がもたらす知見のもつ著しい特徴の一つに、その言明の逆説性がある。そしてこの逆説は多くの場合、アクションとリアクションの間のタイムラグによって引き起こされる。例として逸脱者に対するラべリングの理論を考えてみる。ある人間が犯罪行為を犯したとき、人々はその人間が現在備えている属性の内に犯罪の原因を見ようとする。あんな卑劣なことができるなんてよほど下劣な品性の持ち主、下賤な集団の出自に違いない、と。犯罪の一部が、実は逸脱者(とそれに関連する集団)に対するそうしたラべリングを原因として起こっている、という事実の一面を人々が見ようとしないのは、アクション(ラべリング)とリアクション(犯罪行為)との間に、逸脱者としてのアイデンティティの確立、反社会的行為への敷居の低下、犯行動機を固めさせた偶発的出来事の発生等の経過を含んだ相当のタイムラグがあるからに他ならない。多くの人々にとっては複雑な状況を跡付けるよりも、即時的な展望の元に、犯罪行為の卑劣さと犯罪者の属性(肌の色、階層、国籍等)を直感的に関連付けるほうがはるかに容易なことなのである。凶悪犯罪者に対する単純な厳罰化が治安をさらに悪化される、という発見も多くの人々にとっては逆説的に響くだろう。ここにもアクション(厳罰化)とリアクション(治安の悪化)との間に横たわるタイムラグの問題がある。厳罰化に伴って社会とは不寛容な存在なのだというイメージが抱かれ、人々の相互信頼が難しくなって殺伐とした気風が社会に満ちていくまでの経過は、数年以上のオーダーで進行するものであって、直感的説明と即時的な不安の慰撫を求める態度にとって、忍耐を要請するそのような主張は挑発的ですらあるからだ。今あげた二つの学説には当然のことながら、アクションの仕方を変えれば社会はそうでない場合よりもゆっくりとではあれ好ましい方向へ展開するはずだ、という規範的な主張が含まれている。このように、巻く方向を間違えるように誘うdeceitfulなネジは社会事象のあらゆる領域に存在していて、alternativeなアクションから結果するその影響は、それが好ましいものか好ましくないものかにかかわらず乗数的に波及していくという特性がある。乗数からの連想で言えば、国が貧しているときに政府が財布の紐をゆるめて大量の税金を使うという財政の発想も、大恐慌時の世界にとっては革命的な逆説であったに違いない。ここにももちろん政府支出から、雇用促進・需要創出を経て、生産力と消費の回復へ至る長い時間の経過がある。
社会科学に限らずもともと科学は、人々の素朴な世界了解の仕方とは別の経験的・合理的方法によって対象に向かうという意味で逆説的な性格をもっており、コペルニクスダーウィンが世間を騒がした受難の時代から現在まで科学のそのような性格は基本的に変わっていない。ただし、宗教と世俗が分離し、(少なくとも制度的には)神が宇宙や社会を司る瞭然たる存在から、個人の信仰の対象として各人の心の中に退位した現代の多くの文化圏にあっては、自然科学上の発見が人々の信念と深刻に対立しそれを脅かすことはほとんどなくなった。宇宙の開闢から人類の誕生に至るシナリオが大まかに描かれ文明社会の人々の間に流布してからすでにかなりの時間が経過していて、多くの人々はまともに理解しているかどうかは別にしてもそれを忌み嫌うことなく受け入れているように見える。そこには、自然科学が提示する宇宙像や生命観が、世俗化した人々の生活感情と相反することがなくなったということの他に、自然科学研究が備える高度な専門性が一般人の心情的介入を拒んでいるという側面も考えられるだろう。現存する科学上の未解決問題の多くは今や人々の生活的関心を離れ、多くの人にとってどっちでもいいもの、解決してもしなくても大した影響をもたないないもの、一部の物好きが趣味や衒学の対象として嗜むものであり、そういう意味で自然科学は良くも悪くも社会の中に自由なフィールドを得ることに成功した。問題は社会科学のほうである。社会科学が対象とする政治・経済・社会的事象は、もとより人々の生活と密接に関連した存在である。誰もが口を挟みたいし、その気になればもっともらしい意見を表明できる対象が、人々の関心から逃れることは難しいし、民主化国民国家化が進むにつれて社会科学にとってのこの桎梏はますます強固になっていくだろう(というより、社会科学そのものが生活世界への市民の関心の興隆から生まれたものだった)。また、世俗化に伴う信仰の内面化、無宗教化によって、価値観や意味の源泉を政治的・国家的イデオロギーに求める層が増大し、社会科学的主張が流通するための政治的自由も失われていくだろう。社会科学研究それ自体が、政治的な意図のもとに行われている場合だってあるかもしれない。多様な境界条件を読み解かなければならない社会事象を巡る判断は常に容易ではないが、世論を分断するようなcontentiousな状況において何か、蓋然性の高い判断を下す助けとなる便利な基準はないものだろうか?ここで科学の逆説性という真理を思い出そう。このような場合、世に抗うリスクを被りたくなければ順張り、誤りを犯したくなければ逆張りが(当面の)有利な戦略であろう。