おそらくは自分の心の弱さから僕の中に懐胎しようとしていた、子どもとの接し方についての考え方が正しいのかどうかを確かめるために、町の大書店に入った。医師国家試験の教科書、精神医学、発達心理学等のコーナーをゆっくりと巡り、障害児教育という書棚の前に立つと、百冊を超える本の三分の一がアスペルガー症候群、三分の一が自閉症で、残りは学習障害発達障害ダウン症についての本だった。それらは僕の調査の目的に適う本ではなかったが、ふと目に留まった多動性障害について書かれた一冊を手に取りページを捲った。他人の子なら、大人たちから「落ち着きがない」、「集中力がない」、「調子ノリ」と片づけられてしまいそうな言動の裏にある、当の子どもの心の働きが、子どもの一人称の言葉で丁寧に説明されている。ページの余白の挿絵に、何度言われても失敗してしまう子どもの様子が、コミカルな、色鉛筆のタッチで描かれている。気持ちを楽にしてくれる暖かさのある優しい本だった。辛くなっている子どもと、親に対して、それでいいんだよと抱擁し、一歩ずつ一緒に歩いて行こうと肩を押す、強い力が紙面から溢れていた。ここにある百冊の本のそれぞれに、これは自分たちのために書かれたのだと思う読者がいて、そういう読者を想定し、助けになる考え方を彼らに手渡すように、本の中に込めようとする作者がいる。助けを求める声を口にしない日本社会の中で普段は見えなくなっているそういう関係性を想像し、自分たちが上げてもらっている人生という舞台に対して、改めて厳粛な気持ちにさせられた。生来人生に対して真面目であった僕らを、何が、冒涜的にさせているのか。他人の振舞いを、事情も知らないままに蔑むことによって自分の人生を傷つけているではないか。終局的に人は他人の事情を知る術をもたない。だとすれば「蔑む」こと自体が僕ら人間から生命としてのgraceを奪っていく大きな罠なのではないだろうか。
子どもの接し方についての自分の考えについて僕は、誤りである、という結論を下した。うまく言えないが、子を思うが故の親の不安を解消するために、弱い者に何か宣告するようなことは、やはり虚弱な心が受ける誘惑、親の甘えなのだ。これで良いのかという葛藤に、死の瞬間まで宙吊りにされる不安、そんなことは子どもを迎えるときにとっくに覚悟していたことではないか。