30

誕生日に前後して、何人かの人に手紙やメールを貰った。大台とは言っても、同級生は10ヶ月も前から続々と大台に達しており、これといって事前に身構えることもなかったが、実際に手紙やメールに刻まれた「30歳の誕生日おめでとう!」の文面を目にしてしまうとさすがに一瞬、ウッ、と息詰まるものがあった。
中途半端な年になったものだと思う。30といえば、スポーツ選手なら十分ベテランだろうが、リーマンなら中堅、政治家やお笑い芸人ならまだまだ青臭い若手。何をやっても許される20の若さもなければ、社会的な責任をどすんと引受けるだけの40の重みもない。その両極の間に懸垂線を描いてだらしなくぶら下がっているだけの半端な年代である。「人生の夏の後半戦」という言い方もあるそうだが、宿題を積み残したまま手をつけるわけでもなく残りの日を惜しむ夏休みを連想させ、考えようによっては憂鬱な表現である。人によっては、見た目と中身の一致を図るべく成熟に向かって日々蓄積を積む方向に舵を切るのか、若さを保つ方向にregressiveな努力を傾けことに留まるかの選択を迷う分岐点にもなるだろう。30という数字の字面には、何事も其処を土台としては築かれない空虚さが漂う。そこには同時にそんな空虚さ故の奇妙な甘美も感じられないでもない。
ともかく死なない限りこんな30台があと十年間続くわけである。20の時描いた構想も実現しておらず子供を育ててる覚悟もない我が身を照らせば、しばらくはこの年齢と寝食を共にしつつの様子見だろう。