RIZIN. 25の会場・大阪城ホールから、宿をとった帝国ホテルまでの道のりは項垂れながら歩いた。往路はタクシーで乗りつけた道をなぜ歩いて帰ることになったのか、今となっては思い出せない。メインイベントに組まれていたタイトルマッチで贔屓の選手が負けてしまったからだろうか。
全ての試合が終わった午後8時。昼間はどこまでも高くジェット機の機影が光っていた秋の空も闇に沈み、賑やかだった大阪城公園の観光客も大方捌けていた。ビルやお堀の間を通る風は肌寒くはあったけど、火照った体に夜気の冷たさは心地よかった。下を向いてホテルを探す気もない僕からスマホを奪い、マップを見て「こっち」。足取りはどことなく格闘家風に風を切るようでもある。そんな息子との時間を一分でも長く延長したかったのかもしれない。
「今度の未来の試合、しょうと行ってきたら?」
という妻の提案を真に受けて、息子と二人大阪まで来てしまった。去年の年末にYoutubeでその存在を知ってから、17才も年下の若者に夢中になった。少年院上がり、地下格闘技出身の28才。総合格闘家兼Youtuber。45才の一児の父がハマっていると公言するには気が引ける肩書きだけれど、虜になってからはそんなこともそっちのけで家族や友人に知らせてまわった。
「格闘家がぼったくりバーに潜入したら…」
「弟の朝倉海も格闘家で…」
思い返せばうちらが今の愛犬を飼うようになったのも、仔犬を買いに行く動画を家族で見て「かわいい!」となったのがきっかけだったし、息子が自らYoutubeを始めて動画を投稿するようになったのも、STAY HOMEのさ中、冒険的な数々の企画をメンバーが楽しんでいる姿に遊び心を触発されたからだった。僕と息子との年齢差は34才、ということは朝倉未来と息子との差も17才。父親の言うことを斜に構えて聞くようになった少年を勇気づけ導いてくれる模範的存在のありがたさ。
少年院上がりの人間に対してあえて「模範的」という言葉を使ったけど、どのような社会でも彼のような存在を公に「模範的」と認めることはないだろう。いわんや逆境に耐えながら一芸に粉骨砕身、規範を外さず、成功してなお人間臭い葛藤を表に出さないことが美徳とされる日本では、性格の偏りも「愛らしい」範囲にとどまる限りにおいて愛されるのであって、彼のようにナマの全人格をペルソナに表出させつつ世に打って出る人間はアンチヒーローにならざるを得ない。けれどもそのことが、社会の抑圧されたある層、個人の中に忘れられていた無意識の層に熱を呼び、Youtubeという裏の世界のスターになった。昔、松本人志が『遺書』を書いて何百万部も売ったけど、当時の一般メディアも、彼の才能や技より物議の方をよく取り上げていたように思う。全盛期の松ちゃんもまた技芸を超えた全人格をもって君臨するアンチヒーローだった。
アンチヒーローというものを改めて考えてみると、必ずしも反社会的ということではないと思う。メディアが掛け値なく持ち上げる大谷翔平藤井聡太のような存在にはもちろん多くのファンがいるけど、彼らのケチのつけようのない活躍ぶりを淋しさを感じながら眺めている人たちの存在も社会の片側にはあり、そこからの声は普段は聞こえてこない。社会の中での位置取りおいて、野球と将棋には重なるところがある。長い歴史と、上昇のための道が整備されていること、頂きに殿堂のあること。つまりは良い子のみんなにも安心してお勧めできる公認の競争社会であるということだが、言うまでもなく日本には、それとは比べ物にならないスケールの競争社会(というより社会イメージそのもの)がある。学歴社会と格差社会は公認の、というよりは自明過ぎて暗黙ですらある競争社会であり、誰もそのことを忘れることはできないのだけど、大谷や藤井の存在が東大卒や富裕層のような嫌味を感じさせないのは、彼らが「ボクは野球しか(将棋しか)できません」という顔をしてくれているからで、そのことによって彼らは卓越性を許されて、野球ファンや将棋ファンだけでなく、受験生やサラリーマンの模範にもなりえている。そう、競争社会の階段を上ることをあらかじめ動機づけられている人間にとっては。
学歴社会、格差社会の全体性というのは、競争に挫折したものだけでなく、初めから競争に参加する意志も環境もなかった者にさえ負け組の意識を強いるということで、その中で使われる反社会的という言葉には、競争の埒外の態度・振舞いを含んでいこうとする恐ろしいところがある。だってヒドいと思わないか?反社会的という語に限らず、発達障害という言葉も、非正規という言葉も今や同じ文脈で使われて、それに該当しない者の無意識も含めて不安と恐怖で圧殺しているのではないか。もちろん黒ずくめのストリート・ラグジュアリー(っていうのかな?)とか街での喧嘩とか、いわゆる「非行」的な面での浅はかな模倣もあるけれど、記号としての反逆イメージだけを売りにした有名人はこれまでにも数えきれないほど出ていた。朝倉未来インパクトはそういう表面上の波紋よりもっと深いところで響いていると思う。尾崎豊の本質が「盗んだバイク」や「校舎の窓ガラス」にあるのでなかったのと同じように。
僕は個人的に、100の質問の中で「怖いもの」を聞かれ「永遠に続くもの・こと」と答える彼の感性、浮気はしないと公言し、恋愛相談に対して「信じることは許すこと、裏切られてもいいと思えること、つまりは愛すること」と言えてしまう彼の人格が好きだ。日本で有名人としてある人間にとってこういう考えを真顔で表明するための厳しい条件を考えると一層感動してしまう。人生や恋愛といった大文字の項目について語ることを許さない、語ったとしても自虐性のあるユーモアに包まざるを得ない社会からの圧力。さらに公認の競争社会の道が整備されているということは、それだけ徒弟性に近い上下関係の中での修業期間を経るということだから、そこに自己抑制の頸木が加わる。僕が松本人志との類縁性にこだわるのは、そうすることで二人に共通するバックグラウンドが見えてくる気がするからだ。豊橋-尼崎というエリートの集まらない(治安のよろしくない)地方の出身であること、気が強く愛情のある母親、そしてサディスティックなまでに強権的な父親。つまりはカラマーゾフ的な背景。抑圧を突き破る人格を生むには神話的な布置が必要なのだろうか。たとえそれが当人を深い淵へ追いやる宿命を帯びるにしても。
もう一つ好きなシーンがある。「育て方を間違ってたのかな」、「私がいけなかったのかな」と振りかえる母親に対して、何も言い返さなかった彼。暴力的な感情を握りしめ、下を向き、沈黙を守った彼の表情。朝倉未来から夢を貰っている者たちは皆このような経験をもっている。人に夢を与える仕事の、負の焦点としての沈黙。