前日の夜。遊び疲れた甥っ子と、漁に骨折ってさらにこのあと大阪まで車の運転が控えている旦那さんが仮眠をとっている間、お母さんの部屋に母子が集まってあれこれと話をしていた。僕もそこに混ぜてもらって、お母さんのデスクチェアに座りながら机の脇の棚に置いてあった妹さんの小さなアルバムを手にとって時間を過ごす。子供の頃から学生時代までの写真が時代順に収められているアルバムで、卒業時に記念に自分で編集したものらしい。何気なく手に取りながらも僕としては、アルバムの前半の幼い姉妹で写っている写真を自然に探してしまう。二人並んで写っている写真はまだお姉ちゃんのほうが背が高く、表情にも自信が漲っていて、その様子がその後の二人の関係の変遷、現在のポジションを考えると妙におかしいというか微笑ましい。そんなところばかりを見つけ出して楽しんでいるこちらの思惑はすぐにお見通しになって、早速横から「お姉ちゃん可愛いやろ」と。そうやってアルバムをめくっていくと、あるページで画面全体が真青な色につぶれた写真が目に飛び込んできた。見ると画面一杯に広がった青色は望遠で捉えたと思われるプールの水の色で、そこにコースを区切る鮮やかな色のレーンが縦に2本引かれている。真ん中にはこちらに向かって泳ぎながらまさに息継ぎのために顔をあげた瞬間の選手の姿が写っている。聞くとこれは県の平泳ぎの代表として高校総体に出場したときの写真で、たまたま正面の位置に座ったお母さんが撮った1枚だそうだ。ファインダーをのぞき込みながら必死に何枚も写真を撮ったのだが、タイミングが難しく他の写真は水中に顔を沈めた失敗作ばかりであったらしい。唯一まともに撮れたというこの写真は大きさそのものはとても小さいものだし、ピントも本人の顔が識別できるかできないかという程度にしか合っていないが、水と格闘する渾身の泳ぎがグラフ誌の表紙のような迫力で捉えられている。下にちょっとしたメモ書きがあって、そこには県の高校記録を更新して出場権を得たと書かれていた。これまで知らなかったのだが中学時代にも県の中学記録を塗り替えたことがあるらしい。前後のページには他にも、県の陸上大会でリレー選手として力走する姿など、華々しい活躍の跡が散りばめられている。持久走では3年連続で校内のトップで、この時は特別にトロフィーが誂えられたらしい。国体にも高校総体にも出場したことのあるアスリートなど、僕が通っていた進学校にはそれに似た存在すらいなかったので、ただひたすら「すげー」と呟いきながら感服するしかなかったのだが、それに対して本人が、高校総体出場後に一時記録が10秒以上落ち込むほどにスランプに陥ってしまい、そこで一旦水泳を止めることも考えたのだけどその後また練習を再開して、元の記録のレベルまで戻すことができたのが一番嬉しかった、という話をしていたのが逆にとても印象に残った。僕ら凡人の勘ぐりでは、メジャー競技での全国大会出場でまず問われるのは運動神経や身体能力など、いわば天与の能力の総体であろう。したがって僕らの称賛の向かう先も、天分に恵まれた選手たちによるパフォーマンスの卓越性に集中しがちである。ところが当人たちにとっては、才能というのは出発点から与えられていたいわば(遺伝という)環境の一部にすぎないのであって、そのようなものは自分のfeatを振り返るときの正当な評価の基準にはなり得ないということなのかもしれない。目標としていた記録を達成して、その足跡を振り返ってみるとき、彼らの身体にはそのパフォーマンスを体得するに至るまでの練習、試行錯誤、葛藤の記憶が蓄積されているだろう。この熱を伴った記憶の他になにが公平な基準になりうるのか。
これは多分、才能のあるなしにかかわらずすべての人間の自己評価に対して当てはまることなのだと思う。中高時代を振り返ってみると、少なくとも勉強に関して僕を初めとして多くの同級生の中には努力を尊ぶ気風は表立ってはほとんどなかったと言っていい。勉強しないでもできるやつが一番偉く、次に勉強しないで遊んでいるやつらの蛮勇ぶりが評価され、ガリ勉タイプはその下、そして勉強してもできない人間は最低という位置づけ。だからみんな試験前には、やれ全然やってないだの一夜漬けで済ませただのと、自分の成績の如何に関わらずそれが不勉強の結果であることをみんなに分からせようと懸命にアピールしていたように思う。進学してそれぞれが別の学部・学科を通って異なる道を歩いている現時点から考え直せば、受験時代の勉強もそれぞれが目標に向かうための個々の努力の一部にすぎなかったのだが、当時そう考えられなかったのは、定期試験の結果を一々張り出すような校風のなかで、自分の順位をあげるための勉強という行為が、間接的に他人の順位を下げようとする試みという意味を含んでいたからかもしれない。そのことによる軋轢や制裁を避けようとする心理が、味気ない序列を作りだし、努力よりも才能を尊ぶ価値観を知らないうちに養っていたとしたら、社会のあらゆる分野へと進んでいく人間を一旦ひとつのフィールドに整列させて優劣を競わせる受験競争には、暗記力の偏重だの行動のマニュアル化だのよりもよほど大きな弊害があることに気づく。
いつのまにか才能か努力かという枠にはまった話になっているけど、この二者択一がrealな(実在論的な)問題設定かという疑問はひとまず脇におくとして、僕らが耳にする多くの決まり文句(「努力に勝る天才なし」、「1%の天才と99%の努力」、「努力する才能云々」、"Genius is an infinite capacity for taking pains" etc.)の中で、正しいものがあるとしたらそれはおそらく一つしかない、というのが今回のエピソードから学んだ僕の考えだ。それは「努力だけが重要だ」ということだ。努力が才能に勝る必要もない。努力する才能も要らない。ただ努力することだけが重要なのだ。あるいはこう言いかえてもいい。努力だけが重要だ、ということを出発点にしてのみ、問題に対する考えを組み立てていくべきなのだと。これは「貧する輩は努力が足りないからだ」というような戦前的あるいは勝ち組的思考とは全く別の文脈の中で言っているつもりだ。その手の思考が幅を利かせる世の中が維持しようとしているのは、むしろ努力をしても困窮する社会、努力に対して相応の敬意が払われず、結果的に努力が最もないがしろにされている社会なのではないか。互いの才能や地位を羨んだり蔑んだりするだけの、相互の社会的オフセットのみが関心の対象となるようなエートスが蔓延した時代は、あの受験生の猜疑心や疑心暗鬼が社会に全面化したかのような悪夢のような印象を僕に与える。メディアはセレブリティーへの羨望を焚きつける一方で、へまを犯した既得権益者に対しては、地獄へ堕ちよ、と糾弾の炎を煽り立てる。メディアへの猜疑心を強めたと言われる視聴者も、実行動の面で賢明になったわけでは決してなく、上と下しかないこの構図のなかでむしろ面白いように踊り続けている。彼らにとって、自らの世界観とメディアが示すそれとの相違は、メディアもまた糾弾すべき搾取者の一角である、という点にしかない。これだけ容赦なく公務員をこき下ろしておきながら、子供にならせたい職業の一位が公務員だなんて、まったく悪い冗談でしかないではないか。
もちろん、努力だけが重要だ、といったところでそれは一次的には「気の持ちよう」を意味するに過ぎず、何らかの客観的な社会設計に結びつくような話ではないかもしれない。それでもこの主観的な言明からはいくつかの非自明なlemmaが導き出せるように僕は思う。まず、光速が時空間の成り立ちを決定するミンコフスキー空間のように、努力だけが重要な主観的空間においては、努力のみによっては(例えば「才能」の助けなしでは)得られないものは、時空の地平線の外側にある事象にすぎないのだということ。「才能」とは、あくまで先天的環境の一部、人間の裁量を超えた所与の条件のひとつであって、そこに人間が積極的にコミットすることが実質的な意味をもちえない事柄だからだ。そしてもう一つは、努力によって踏破された軌跡だけを、人間は正確に計量することができるということ。有り体に言えば、自分が努力を傾けて行ってきたことだけを、人は自分に対して評価することができるということ。そして人が他人に対して伝え残し、他人の次なる努力を派生させることができるのもまたこういう事柄に限られるのではないかということ。才能(aptitude)にしろ努力(effort)にしろ、元々は何らかの行為上の目的を前提とした言葉であるが、その意味で、僕はいままで使ってきた努力という言葉に手段的意味合いを超え出る可能性を感じる。そこには、engagementやcommitmentと同じように、何か人間的な実体への志向性を含みうる可能性があるのではないか。アメリカに今年現れたオバマという人間に寄せられているのは、人間がengagementやcommitmentによって評価しあい尊厳を与えあう、そんな社会を導いていくことへの期待なのかもしれない。
翌日はお母さんと妻と三人で根来寺を散策。語り合う親子の後ろについて歩いているだけだったが、柔らかい光に包まれた幸せな時間だった。庭園を臨む座敷でいただいた落雁とほうじ茶のおいしかったこと。