早朝、突然足元に衝撃を感じたと思ったらベッドに飛び乗ってきた甥っ子だった。時計を見るとまだ七時半。悲鳴に近い声を上げながら僕は布団の中に逃げ込んだのだが、妻はそのまま起きてしまったようだ。朝ごはんの後、六畳の和室でお手玉やボールで遊んだり、彼ご愛用の電車ジグソーパズルを一緒に解いたりして時間を過ごす。パズルの類いがとにかく好きなようで、ジグソーパズルの腕前も大人三人が上半分を担当し、下半分は彼一人に任すくらいでちょうど良いくらい。しかもこっちは普段使わない脳を酷使して一個完成するだけでヘトヘトなのに、彼にはそんな様子は全く見えないから大したものだ。結局パズルは彼が持参していた四つ全てを片付ける。お母さんによると妻も幼いころはパズルに滅法強かったらしいが今日のところは他の大人並みに苦戦していたし、彼にしても男子としてこのまま成人するまでパズルに熱中し続けることもないだろうから、そういう意味では今発揮しているパズルを解く能力そのものが、大人になってからのなんらかの収穫に直接結びつく可能性は少ないのかもしれない。それでも、まだ話すこともおぼつかない年齢の子供が、特定分野とはいえ大人を知的に凌駕してするにまで至ったこと自体はsomethingであろう。思うに、この過程が将来的に実質的な意味をもつとすれば、努力と集中に対する称賛とか、そこからフィードバックされる達成感と秘かな自信、共同作業の中で得られる大人との親密な呼吸といった、情緒形成にかかわる部分のほうなのではないか。ニンテンドーDSのソフトの大ヒットを見るように、今や大人たちの「能力」=「脳力」幻想は時代病と言えるレベルにまで達していて(あのブームで実際に能力を上げた人間など日本中に一人もいないと、本当は誰もがうっすらと感じているはずだ)、その集団的不安が教育産業によってビジネスの推進力として利用されている現状では、大人にスケベな期待を持つなというほうが無理な話なのかもしれない。ただ子供自身も決して馬鹿ではないだろうし、それどころか変な幻想に取り憑かれていない分、自分のマインドセットが向かうべき方向に関しては大人よりも直感的によく理解しているのではないだろうか。子供は、大人がスケベ心を露わにして自分に過度の期待を寄せるようになったとき、興味の喪失と作業の拒否という形で即座に応えてくるだろう。その時、このメッセージを大人がきちんと読み取れるかどうか。当たり前だが僕がこんなことを勝手に考えたのは一般論としてであって、今回そのヒントをくれた甥っ子の将来を危惧している、ということでは全然ない。彼の素直で元気な感情表現と、ダメと言われた時には決して駄々をこねない自制心を見ていれば、誰だって彼に両親からの愛が足りていること、大人の気分に左右されない一貫したしつけが行き届いていることを了解できるだろう。
昼ごはんに昨日釣ってきてくれたアジの南蛮漬けをいただいてから、デパートでの買い物がてら四人でドライブに出かける。大人の着替えやなんやで散々待たされた甥っ子は抑えきれないテンションで車に乗り込む。しきりにお母さんに今日、電車を見るのかどうかを尋ねたり、落ち着きなく立ったり座ったりしているが、車窓から入ってくる視覚情報にはすごい集中を示していて、前に住んでいた家へ曲る交差点などもしっかり認識しているようだ。そんな道すがら突然、窓を叩き割らんばかりの珍しいほどの豪雨に見舞われた。買い物のあとにお墓参りを予定したいただけに、せっかくお花も持ってきたのにこれは無理かもしれないと姉妹がキーキー騒ぎ始める。まあ気持ちは分かるけどそこまで喚かなくても、という言葉を噛み殺しながら、これじゃあ雨音とどっちがうるさいか分からんな、と思って甥っ子ちゃんのほうを見ると、さっきまでのテンションを鞘に収めて、独り言もやめて殊勝に窓に落ちる雨粒の模様を見るともなく見つめている。そうだよな、お前も俺と同じ心境だよな、と思うとなんか可笑しくて膝の上に乗った体を抱きしめたくなってしまった。
結局雨はやんで、近鉄百貨店でおみやげも買うことができたし、久しぶりにお墓参りもすることができた。帰ってから、今度は妹さんとお母さんが入れ替わって、また買い物に出かける。スーパーの生簀にサメ、鯛、カニ、フグ、ヒラメ、アジ、イシダイ、ガシラ、ハゼが泳いでいて、このうち最初の六つを言い当てられたのはさすがに漁師の息子といったところだ。あとの三つはうちらも分からなかったので、写メで撮ってあとでお父さんに教えてもらった。帰ると、今日釣ってきたというイカが、漁師の妻によって見事に料理されている。刺身と、甘辛く炒めたもの。これがまあすごい絶品だった。とくにイカ刺しの肉厚、歯ごたえと鮮度はこれまでに食べたこともないレベルのもの。今週『ディープ・ブルー』という映画で深海に泳ぐイカの姿を見て、食いたいなあと思ったばかりだったのも奇遇だった。イカは翌日になると硬さがとれてまったりとした別の味を楽しめるらしく、実際に翌日にも刺身をいただいたのだが、そちらのほうは美味い店へ行けば食えないこともなさそうな、高いレベルではあるが常識の範囲内といったところで、僕の好みは断然初日の方だった。
食べ終わると、うちらが誕生日か何かにプレゼントした神経衰弱のカードで勝負を挑まれる。これでまったく見せ場もなく完敗してしまったのはショックだった。最後は気を使われて指をさしながら、これやで、と教えてもらう始末。この後、向こうの一家は風呂屋に出かけてしまったのでリベンジの機会もなく、妻に代理戦争で勝負を挑んでここも完敗し、最後に非常識なまでに時間をかけて、「ずるいのは分かってるがここは勝たせてくれ!」と懇願しながら36カード全て暗記する戦法で無理やり勝利をもぎ取ったのも情けなかった。甥っ子は風呂屋で見知らぬおばちゃんたちに「はーちゃんに勝った、はーちゃんに勝った」と吹聴していたらしい。
甥っ子がらみでもう一つ興味深かったのが、僕らが2階でピアノを弾き始めたときの話。階下でその音を聞きつけるや否や、息急き切って階段を駆け上がってきた彼。ピアノの前に並んで喜々として仲間に入ろうとするが、やみ雲にキーを叩くのみで、正直雑音でしかなく、うちらが弾き終わるまでちょっと待っててな、と言うと我慢強く自分の番が来るのを待ってくれていた。演奏が終って、さあ弾いていいよ、というと今度は真ん中に陣取って見よう見まねでジャンジャンと弾き始める。ただこれも全く音楽になっていないので、指南する意図で、鍵盤の端の方でちょろっと曲を弾き始めたら、ダメ、と制止されてしまった。人には介入を禁じておきながら、自分たちは人の演奏に介入するというダブル・スタンダードは、大人であっても許されることではないのだなあと二人で反省した次第。