天皇賞は奥さんもテレビの前で声を上げるほどの名勝負だったが、僕自身はこの日、目玉が飛び出るほどの負けを食らってしまった。夕方から久しぶりに妻の実家へ遊びに行くことになっていて、そういう日だからこそ気分よく出かけたかっただけにとにかく凹みまくる。熱いシャワーを浴び、湯上りに冷水を浴びて気合いを入れても、10秒おきにため息が洩れる状態は変わらず。よりによってなんでこんな日にと自分の運の悪さを呪ったが、新幹線の指定席はもうとってあるので荷物を持って出かけなければならない。二人で肩を組んでから、このことはこのことで切り離して、とにかく今回の帰省を精一杯楽しもうと誓い合って家を出る。
新横浜へ向かう車内ではなかなか上がらなかったテンションも、新幹線のホームに出て発着を告げる場内アナウンスのノイズが耳に入ってくると、自然に高まってきて、売店コメッコと「甘栗むいちゃいました」を買う頃にはすっかり旅気分になっていた。妻が秘かに柿と焼き飯を入れたミニ弁当を作ってくれていて、それを食べてからフランス語の単語帳を開いたらすぐに眠気がやってきた。軽く睡眠をとって名古屋辺りからまたぺちゃくちゃと喋る。日曜日の夜の列車だけに、周りから聞こえてくるのはもうほとんどが関西弁だ。通路を過ぎていく人たちからも大陸系の気風を感じてやや気後れ。京都駅で、彼女連れの、ジーパンとジージャンで固めた東京圏ではあまり見られないファッションの若い男の姿が目に入ってくる。自分も学生の頃はあんな恰好を街を歩いていたなあなどと苦々しく思いながら、深い記憶が呼び覚まされるのを抑えるためにわざとコテコテの大阪弁でしゃべったりしている自分に呆れる。
新大阪からはスーパーくろしお号で和歌山へ。ここで宿題を思い出した。妻のお母さんが最近、地区の集会で俳句を始めたらしく、早速秋の季語を使った作品を5つ完成させて提出しなくてはならないのだが、同時期に持病が悪化してしまい、まとまった数を生むだけの体力の自信がなくなってしまったので、僕らが帰省するまでに各自一作ずつ用意するようにとの指令が下っていたのだ。料理でもジャズ・ピアノでも陶器の色つけでもそうけど、NHK趣味悠々で気楽な切り口で紹介されているものの中に、本当にお手軽に済ませられるものなどあったためしがない。俳句もいざ自分で取組み始めるとすぐにその難しさに面食らうことになった。秋の季語「どんぐり」をモチーフに、少年時代に木の実やら変わった形の棒やらを宝物のように集めていたことを思い出して「どんぐりを集めし心今何処」という句ができた。これなんかは十七文字を使ってほぼ一つの凡庸な、色彩のない感慨しか表現できていない。しかも初めの五・七で次の五への流れはほぼ予想できてしまっているから、最後の五はその流れを冗長に受け止めただけでそこに驚きはまったくない。実質五・七だけで用は足りてしまっているのだ。これと芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を比べてみると、名句の条件が少しずつ浮かび上がってくる。ここでは「旅」「病」「夢」「枯(=冬)」「野」「かけ廻る」という、凡人ならそれぞれを主題として四つも五つも句を作ってしまいそうな互いに独立した発想が完全に結合されていて、しかも自然な流れを失っていない。十七文字という文字数は、埋めるには容易いが、生半可な密度では吹き飛ばされてしまうほどの容量の小ささをも意味しているということが、自分でそこに言葉を当てはめていくたびに身にしみて分かってくる。散文では読みやすさに寄与する冗長性は俳句にとってはただの怠慢に過ぎないのだ。僕の句を、まだしも詠むに耐える代物へと育てるためには、最後の五文字に、どんぐりとは全く異質でそれ自体が別の角度から少年期へのノスタルジーを表象しうる文物をもってくれば良い、というところまでは分かるのだが、肝心のそれがまったく出てこない。才能のなさもさることながら、こんな短時間で旅の気分に浮かれてできるものではないと悟ってからは、開き直っておふざけ路線でいくつか作ってみた。
・大阪人大阪弁で冬支度
・馬鹿だけどノーベル賞を取りたいな
妻の才能の無さは僕に輪を掛けた凄まじさで、
・甘栗を完食してから中国産
・初物の甘柿見つけてつい購入
そうするうちに和歌山駅に無事到着。お母さんが車で迎えに来てくれる。妻の妹さん一家が二日前から来ていて、釣りが大好きな旦那さんは、今日は僕らのためにアジを釣ってきて、明日も早朝3時に起きて今度はイカを釣りに行くために、甥っ子ちゃんとともにもう寝ているらしい。甥っ子は、二週間前から僕らとの再会を心待ちにしていて、実家に着いてからも「来る?来る?」とうるさいので、明日朝起きたら来てるからね、と言い聞かせてようやく寝かしつけたなどという嬉しい話を聞かされる。
ちょうど5時間かかって11時前に到着。妹さんが起きていて、梅酒を飲みながらお母さんも含めて四人で話したあと、結局3時前まで三人でまじめな話やら昔話など色々と喋った。ずぼらなペースで来させてもらっているけど、それでももう数え切れないほどの訪問で、自分にとっていつの間にかとてもリラックスできる場所になっているのがありがたかった。煙草を吸いに外に出ると、虫の音と疎水のせせらぎ、澄んだ空気に心が休まる。田舎へのコンプレックスが少しずつ溶けていくようだ。