子どもが生まれてから大きく変わった世界観の表れの一つとして、自分の世代も含めた各世代に対する年齢感覚の変化がある。これまで自分を中心に何才年上、何才年下と年齢差を測っていた原点が大きくずれて、息子の年齢を中心に人々の年齢を捉えるようになった。現在の自分の年齢が、幼かった自分が見ていたあの頃の親と同じか、というような感覚は三十代後半になれば多くの人が抱くものだとは思うけど、その対象がより広い年代に拡大されて、例えば六十代の老人を見ると、息子より六十才年上だということは、物心ついたばかりの自分が見ていた祖父母や、町を歩いていた老人と同じ存在なのだなという思いにとらわれて、その過去のイメージが現実の本人の像と重なり合う。この感覚は、自分より年下の世代に向かう時、より不思議な色彩を帯びてくる。かつては年下世代として単に下に見ていただけの存在が、息子に対する年上世代として上に見上げる存在としての性格も併せて目に映るようになるのだ。近所で遊ぶ小学生たちは息子にとってのお兄さんお姉さん。高校野球は後輩たちの奮闘であるだけでなく、お兄さんたちの戦いでもある。若者の就職難の報にふれても、息子にとって二十才年上のお兄さんお姉さんたちの労働環境が今後どうなってしまうのか、という案じ方をするようになった。今日、晩ご飯の後に仕事をしていて不意に尾崎豊の『坂の下に見えたあの街に』のメロディーが頭の中を流れ始めた。高校の時に100回以上聴いたアルバムの一曲で、歌詞は全て諳んじることができる。あの曲を彼が書いたのは、彼が十九才の頃。もう自分よりも息子の方に近い年齢である。そう思うと、これまでアルバムの片隅で親から離れることの意味を静かに教えてくれていた小曲が、息子の世代が僕たちに向けて心の声を歌った曲のようにも思え、二重の感動に押し流されて気持ちを抑えることができなくなった。

あなたの夢に育まれて その夢奪ってくわけじゃない
小さな俺を眠らせた
こわれちまった オルゴールが
バッグの中で 時をかなでている
坂の下に見えたあの街に』 / 尾崎豊

やがて離れていく親と子の関係をこれだけ美しい詩的真実として表現した言葉があっただろうか。時代を画した詩人の歌は世代を超えて歌い継がれていくが、それは同時に聴く者の中に年をとるにつれて新たな真実を告げ知らせる力をもち続ける。こんなに泣き虫の父ちゃんだけど、息子が三十になっても抱きしめられる頼もしさをもった親になりたいと思った。マフィアになる決心をしたマイケルの髭面を抱き寄せてキスをしたドン・コルレオーネのように。