妻の元に昨日、一年半前に退職した会社の上司から職場復帰を依頼するメールが届いた。もちろん息子はまだ二才であり、子育てを優先しようと決めた当時から状況は変わっていないから、声をかけてくれたことに感謝しながらも丁重に断ったのだけど、見せてもらったメールには、新しくスタートするプロジェクトにとっていかに妻が適任と思っているかを示す上司の考えが懇切に書かれてあり、十年間彼女が続けた質の高い仕事がどれだけ職場の信頼を得ていたかを思って改めて誇らしい気持ちになった。同時に去年の三月に退職届を出しに行った時のことを僕は思い出していた。その日の数日前まで、妻は復職か退職かを迷っていたのだった。保育園の抽選にはすでに通っていた。僕の稼ぎは当面生活するには十分であったけれど、先まで保障された仕事ではない上に、世間からは景気の良い話は聞こえてこず、一度正社員を辞めてしまうと再びその地位に戻ることが難しいであろうという懸念も、退職への決心を鈍らせていた。最終的には、「子どもがI(ぼく)という主語を用いはじめるまで、子どもを親から離して旅をさせてはならない」というさる育児書の言葉が決め手になって退職を決意したのだが、今度は、復職を条件に取得した育児休暇を目一杯使った上で、どの面を下げて退職を申し出るのか、ということが問題になった。毎日夜遅くまで話し合った結果、こちらがどれだけ非難を恐れても人の口に戸は立てられない、だったら十年間働かせてもらって、多くの友人との出会いの場も与えてくれた会社への感謝の気持ちを伝えることだけに専念しよう、という覚悟がようやく決まったのは前日の夜のことだった。当日は僕が息子を看ながら留守番をすることになった。いくら覚悟が決まったとはいっても、上司は産後数ヶ月で子どもを保育園にあずけて育休を切り上げるという、妻とは間逆の決断をした苦労人でもあり、出社する妻の緊張も相当なものだったと思う。その日は寒さの中にも春の兆しの感じられるよく晴れた日で、僕は息子をベビーカーに乗せて散歩したり、野菜をすり潰した離乳食をあげたりしながら妻の報告を待っていた。夕方頃妻から電話があった。オフィスに入った瞬間に上司と目が合い、近づいて恐る恐る退職の意思を告げた瞬間に「いっぱい悩んだんだろうね。大変な決断だったね」と言って上司が抱きしめてくれたことを伝える妻の声はほとんど涙声になっていた。副社長も、いつでも戻りたくなったら戻ってきてください、と声をかけてくれたとのことだった。結末にあんなに意外な幸福を呼び寄せることになった妻の十年間の頑張りは、今家の切盛りに完全に活かされている。我が家のO型男子二人は幸せ者だ。