夜の十時から妻と喋っていたらあっという間に四時間が経った。出会ってから十八年、もう何千時間も語り合ってきたのに、膝を交差させてお菓子とか頬張りながら向かい合っていると、話したいこと、相手の考えを訊きたいことが泉のように湧いてきて止め処がなくなる。そこに修学旅行で親友と枕を並べて小声で囁きあったときのような、甘い秘密と告白に満ちた優しい時間が流れていることも全然変わらない。打ち明け話の中心はもちろん、僕らの共通の恋人への互いの想いについて。
息子は結局今日、晩御飯を全く口にしなかったそうだ。お腹が減っていないわけではなさそうなのに食べなかったのは、妻の見立てでは多分眠すぎて食べる元気がなかったのだろうとのこと。それでも晩御飯を食べるのは夕食の席でと決めているから、今食べなかったら明日の朝御飯までないからね、と確認をとって食卓を片付け一緒にテレビを見ることにした。すると案の定と言おうか早くもソファーに腰掛けた息子のお腹が鳴りだした。見ていたのは甥から貰ったしまじろうのDVDで、その中に動物や果物を指して「これなあに?♪」という歌が流れるコーナーがあるのだが、それを見ながら息子がメロディーに合わせて小声で「たーべたーいな〜♪」と歌っていたらしい。それがあまりにも可愛くて、という妻の話に、その光景がありありと浮かんできて僕も思わず笑ってしまった。この話にはいくつか機微、ポイントがあると思う。まず彼がなぜ正面切って妻に「食べたい」と告げなかったのかということ。これを考えると彼の心の内の様々なことが想像できておもしろい。当然彼は今の空腹という不遇が、自分の選んだ行為の結果だということを完全に理解していたのだろう。今からまた御飯にありつけるという展開がないということも分かっている。それに決断を下した自己へのプライドもある。堂々と自分の選択を告げた相手に対して、判断を撤回して哀願する形になるのはたとえそれが母親であろうと絶対に避けなければならない。もう物事の原因と結果が分かっている立派な二才、あれだけ小さな身体にもそれだけの思考が巡っていて不思議はない。そう考えると、彼はもうこの因果関係が貫く世界で、「事実に対する責任」という原則にしたがって生き始めているのだということに、少なからず感慨を覚える。彼は断じて「悪いこと」をしたのではないし、たとえ決まりからはみ出たとしても、それに「罰」を用いて報い、「罪に対する責任」を問うという原理を家庭に持ち込むつもりは僕らにはない。でもどのような決まりが定められている社会でも(つまり、それが「罪」に当たるか否かに関わりなく)、人は自分の下した行為によって生じた「事実に対する責任」からは逃れることはできない。どんなに緩い法律もこの「事実に対する責任」を免除してはくれないし、賠償や犯罪者への刑罰も、その「事実」自体を消し去ってはくれない。「事実」は船が海につける航跡のようなもので、人が行為をやめない限り自分から切り離すことのできないものだからだ。自分に帰結してくるこの「事実」から、その都度何事かを学び取っていくことが、人の中に生きる力を蓄え育んでいく。実はこの世に生まれた以上、「事実」自体は生まれた時から人間に付きまとっている。「事実」への関与の仕方、つまり「責任」を自覚できるようになって初めて、人は重みある足跡を残しながら、自分の力で人生を歩み始めるということだ。
二つ目のポイント。そういう一人前の葛藤を隠して押し黙っていても良かったのに、彼はなぜそうしなかったのか。何かを口に出さなければ気が済まないほどお腹が空いていたということなのだろうか。それもあるにはあるだろうけど、彼自身が表現の自由を楽しんでいるのだ、と考えると親としての僕らも嬉しくなる。ユーモアが「事実」に対する最高の挨拶なのだということを、彼がすでに学びとっているかもしれないから。