「はーちゃん頑張ってね」
息子の声を背に、入院用具を引っさげて妻と一緒に7時過ぎに家を出た。感慨深く駅のホームに立ったとき、手術同意書を入れた鞄を家に忘れたことに気づいた。妻をホームに残して走って帰る。雨に濡れて息せき切って戻ってきた父親を見て息子もジローもびっくりしたろう。留守を頼んだ、の厳粛な別れから8分しかたっていないのだから。
何とか一本遅れの電車に飛び乗ったあともドタバタがあった。妻の妹やママ友たちのやさしいメールを見せてくれていた妻が急に無言化したのだ。選手交代。そういうことあるよ、と今度は僕が偉そうにフォロー。大門駅で途中下車してトイレ。
銀座駅に着く頃には予定の9時をまわっていたので電車を降りるなり病院までダッシュ。明日切除する肺の最後の仕事。結局10分遅れで2階の受付に入ったが、看護婦さんが迎えに来てくれた後だったそうだ。14階でPCR検査。1階に戻って入院の申し込み。書類を書き込む間も、うちら何やってるんだろうね…と二人ともため息が止まらなかった。でもそれが楽しい。
こんなところでもこの人と来ると遊園地にでも来たような感じがする。高い吹き抜け、斜めに上るエスカレーター、雨の滴る採光用の窓。建物の奥には喫茶店もある、アイスの自動販売機もある。
こんなこともあった。13階の病室に僕一人が案内されたあと看護婦さんの説明を受け、再び「奥さまにもお話が」と待合室に戻ると妻がいない。「あれ、どこに行ったんだろうな」と携帯を見るとメッセージが届いている。「『トイレ探しの旅に出ます』」。これには親切な看護婦さんも笑っていた。その待合室の窓にも、閉鎖された築地市場とレインボーブリッジを包む夢のような絶景。